私は、あることで悩んでいた時期がありました。
その悩みは私にとっては深刻だったのですが、誰にも打ち明けられずにいました。当時、すでに信仰生活をしていたので、神様に助けを求めようかとも思ったのですが、信仰生活とは関係のないことだし、自身の気持ちの問題が大きいから、自分でなんとかするしかない、と考えていました。しかし、いくら気持ちを切り替えようとしても、なかなか上手くいかず、常に重みを背負っているような、嫌な感覚を持ちながら、日々の生活を送っていました。
ある日の明け方の時間、ふと神様に打ち明けるだけでも気持ちが楽になるかもしれない、と思い「このようなことがあって辛いですが、頑張ります」といった感じで、胸の内を神様に伝えました。
その数日後。
御言葉を聞いていると、ある有名人の話が出てきて「そんなのは一般的に普通のことなのに、大げさに言っている」といった感じの話がなされました。
驚いたのは、その有名人の状況が、その時の私の状況と同じで、私はそれゆえに悩んでいたということです。そして御言葉でそのように話してくださったおかげで、スッと重みが取れたような楽な気持ちになれて、悩みも消えていきました。
あれだけ辛いと思っていた悩みが、その御言葉によって一瞬にして消え去ったのです。
悩みを打ち明けた数日後です。数週間後でも数か月後でもなく、またそれ以前に伝えられた御言葉を思い出したのでもなく、本当に、悩みを打ち明けた数日後でした。こんな偶然はありえません。
「神様が悩みを取り去ってくださった」
そう思い、神様とラプトさんに感謝し、同時に「こんな個人的な悩みも全体に向けた御言葉で解決してくださるのだ」という感動でいっぱいでした。しかも捉え方によっては・・・・・・などという曖昧な話ではなく、寸分の狂いもなく、ピンポイントで具体的に私の悩みを解決してくださった。私はその時、神様は本当に私も見てくださっているのだ、と実感しました。
今回、なぜか数年前に体験したその出来事を思い出したので、改めて明け方の時間に感謝したのですが、そうしていると、ある事に気付きました。それは、自分にもあれだけ具体的な救いの御言葉を与えてくださったのだから、自分が気付いていないところで、他の兄弟姉妹にも同様に具体的な内容の救いの御言葉が与えられているのだ、ということです。
私がその時救われた言葉というのは、有名人の状況の説明で一般的な話でした。ですから、他の兄弟姉妹にとってみたらそれほど重要には聞こえなかったのかもしれません。しかし、私にとってみたらものすごく大きな救いの御言葉でした。
ということは、その逆も多々あるのでは? と思ったのです。
それまで御言葉の中でも「自分にはあまり当てはまらないかもしれないな」という話に対しては、あまり真剣に向き合わず「そういう事もあるだろうな」とか「自分は大丈夫」などと、ある意味、他人事のように聞いていたように思います。
しかし、私には救いの御言葉に思えなくても、それは神様がある一人の兄弟姉妹のために話してくださっている御言葉なのかもしれず、その兄弟姉妹にしてみたら、私の受ける何十倍、何百倍もの価値がある救いの御言葉なのかもしれないし、その御言葉によって、その兄弟姉妹の悩みが解決したり、それが、疑問に思っていて問い合わせたことに対する答えだったりするのかもしれない。
そう考えると、捉え方が全く変わってきます。たとえ自分に対して重要だと感じない御言葉でも、それによって兄弟姉妹が救われたのなら、それは同じように重要で、それを共に喜ぶべきだし、兄弟姉妹を救ってくださったことを神様に感謝すべきではないか、と思ったのです。
裁きの御言葉も同様で、それまで自身に深く突き刺さる厳しい御言葉に対しては、悔い改めようと深く心に刻むのですが、「これは出来ている」と思うような御言葉に関しては、さほど気にとめず「自分は大丈夫」と思うに留まっていました。しかし、御言葉で宣布されるということは、そのことが深く突き刺さっている兄弟姉妹が必ずいるはずで、そうであれば無関心でいるべきではなく「共に頑張りましょう」と祈って励ますべきだったのです。
まだまだ、隣人を愛する心が足りなかった。
兄弟姉妹を思う気持ちが足りなかった。
もしかしたら、今になって私が悩んでいた時期のことを思い出したのは、神様がこのことに気付かせようとしてくださったからなのかもしれません。
カワタさんやナナさんは、ラプトさんが御言葉を伝えてくださった後の感謝の祈りの際、いつも必ず私たちすべての兄弟姉妹についても祈ってくださっています。
私も自分や自分の家族のことばかりではなく、兄弟姉妹の不安や悩みについても答えがもらえるよう、そして苦しんでいる兄弟姉妹が救われるよう、強く祈っていきたいです。