先日、仕事でミスをしました。ちょっとしたミスではありましたが、相手を傷つけかねないことだったので、私はひどく落ち込んでしまいました。
それが発覚したのが帰宅途中。帰宅後もしばらくそのことで頭が一杯で、ぼんやりしてしまいました。子どもたちは、いつもと違う雰囲気の私を見て心配してくれますが、気のない返事を返すことくらいしか出来ません。そして妻もその雰囲気を察し「大丈夫?」と声をかけてくれたのですが、私が「大丈夫」と答えると「大丈夫なら大丈夫じゃないような態度でいないでよ」と返されてしまいました。
悪気がなかったのはわかっていました。ただ、私はその一言で「気持ちが沈んだ時、家でもそれを態度に出さずに、気を使わなければならないのか」と深く傷付き、更に気持ちが沈んでしまいました。
「このままではいけない」
ネガティブな気持ちになっていると感じた私はそう思い直し、すぐに神様に意識を向けました。すると少しずつ霧が晴れるように頭のなかがスッキリしていきました。そして直前に「妻に家でも落ち込んでいることを隠して、我慢しなければならないのか」という自分の思いを伝えたい、などと思っていたことも、きれいになくなっていました。
そして、その日の明け方。
祈っていると、ふとその数日前の聖霊様の御言葉の内容を思い出しました。それは「家族への情を断ち切りなさい」という内容でした。それを聞いていた時「自分はそれが出来ていないのだろうな。でも、どうしたらそのような事が出来るのだろうか? 急に姿を家族を捨てて、姿を消すことなど出来ない。でもそこまでしなければ情など断ち切れないのではないか? それとも『情を断ち切る』という意味を間違えて捉えている? それでは情を断ち切るとはどのような意味なのだろうか? 神様、情を断ち切る意味が分からないので、教えていただけますか?」と祈っていたのでした。
そこまで思い出し「今回のことがその答えなのではないだろうか」という思いに駆られました。
私は妻に対し「自分の気持ちをわかってもらいたい、大丈夫だと言っても大丈夫ではないのだ、と察してもらいたい。そして心配してもらいたい」という思いがあったのだと気付きました。そして、それこそが妻に対する情だったのだと思ったのです。相手に自分の心情を理解してもらいたい、と思うのが情なのだと。
自分の辛い心情は神様が聞いてくださる。そして癒してくださる。それ以外に何を求めているのか。
人から同情されたとして、それが何になるのだろう? それで何かが変わるわけではないではないか。実際に、もし妻に自分の思いを告げたところで、真意は伝わるかどうか分からないし、妻に罪悪感を与えるか、もしくは反発されて険悪なムードになるか、いずれにしても、自分の考えで行動したところで、いいことなど一つもなかったのです。
だからといって、もし誰にも自分の気持ちを伝えず、自分の中だけに留めていたら、それはそれで本当に辛いことで、そのような事が続けば、いずれば病んでしまうでしょう。しかし私には神様という話を聞いてくださる相手がいる。それがどれだけ素晴らしいことか、と改めて気づいたのでした。
それらについて気づけたことに対し、神様に感謝をしていると、もしかしたら、あのミスも「情」について悟らせるために、神様が私にさせたのではないか、という考えが浮かびました。実際、あのミスについては、普段であればあり得ないようなミスで、必ず、というか、一番気をつけているところでもあり、だからこそあれだけ落ち込んだわけで、どうしてあの時だけ、あのようなミスをしたのか理解が出来なかったのです。
そう考えると、あのミスにも意味があったのかもしれないな、と思えるようになりました。
ただ、相手がいることなので、どうなるのか、という思いがあり、モヤッとした気持ちが多少残っていたのですが、その翌日、その相手から、全くそれに対して気にしていないような返答が得られ、すべて問題がスッキリ片付きました。
結果、私は一度失ったと思ったものは失っておらず、逆にそれによって「情について悟る」ということを得ました。
これこそが神様の御業なのだと思い、更に神様を信じる素晴らしさを実感する体験をしたのでした。