息子が事故にあいました。
と言っても、クルマと軽く接触しただけで、大事には至らなかったのですが、本当に肝を冷やしました。
その日、私は仕事が休みで、息子と娘と一緒にお昼にパンを買いに行こうという話になりました。私の住むマンションの向かいがパン屋なので、そこでパンを買って家で食べるつもりでした。
マンションのエントランスを出ると、目の前は両側二車線の車道で、それほど広くはありませんが、バスも通り、そこそこの交通量があります。ですから、日ごろからそこを横切る時には十分注意するように、と子供たちに伝えています。ただ、息子は小学四年生で物分かりも悪くなく、慎重な性格なので、そこまで心配はしていませんでした。しかし、この日に限っては、なぜか私が「危ないからしっかり見てから渡るように」と注意を促した直後に、息子が何を思ったか、急に飛び出しました。そして右側から来たクルマと接触したのです。
幸い、ドライバーの方が急ブレーキをかけ、更に避けてくれたので、ぎりぎりの所で止まり、息子はふくらはぎ辺りを軽く擦っただけで、ほとんど怪我もなかったのですが、ショックだったのか、しばらくは私にしがみついて泣いていました。
その後、警察を呼び、事情聴取をして、こちらが急に飛び出したのが悪かった、と謝り、ドライバーの方は、子供がいたと分かった時点でもう少しスピードを落とすべきだったと警察から反省を促され、それでもドラレコから見ても完全に避けるのには無理があったという結論に至り、結果、こちらからは人身事故にしない方向で話をつけて終わりました。
すべてが片付いた後、私は「もしかしたら、もっとひどいことになっていたかもしれない、それを神様が守ってくださったのだ」と思い、感謝したのですが、そのあと徐々に「これは裁きなのかもしれない、十分に義の条件をたてられていない私に対する警告なのではないか」と思うようになりました。そして「私のせいだ。私が悪いのだ」と自責の念にとらわれていきました。信仰生活において、あれができていないじゃないか、これができていないじゃないか、とその思いが膨れ上がっていったのです。
明け方の祈りの時間、そのことについて考えていると「そのように考えてはいけない」という言葉が浮かびました。そして、今回のことはサタンの攻撃で、それを神様が守ってくださったのだ、という考えが強く浮かんできました。
よくよく考えてみると、おかしな事がたくさんありました。
息子は普段から慎重な性格で、私以上に交通ルールに厳しく、常に気を付けているのにも関わらず、今回に限って急に無茶な行動に出たこと、そして接触したクルマに関しても、私が事故直前に「危ない」と思って子供たちに注意を促すほどスピードを出していたにも関わらず、急ブレーキをかけて、ぎりぎりの所で止まったこと、更にドライバーの方は(たとえいかなる場合でも、人が相手ではクルマが悪くなるとはいえ)急な飛び出しに対して怒ってもよさそうな場面なのに、冷静に警察を呼び、息子へも気遣ってくれ、こちらにも謝ってくれたことなど、通常では起こりえないような事が起きた反面、結果的に大事に至らず、また気分を害すこともなく、すべて丸く収まったのです。
唯一気がかりだったのが、息子がこの事故がトラウマになって精神的に病んでしまわないか、ということでしたが、その後、しばらく落ち込みはしていたものの、数十分もすると、娘と妻が買ってきてくれたパンを食べ、公園に行って、待ち合わせていた友達と夕方まで遊んで帰ってきたので、心配はないかな、と思います。
今回のことで「神様が守ってくださっている」という感覚が強く残り、忘れられない記憶として、深く印象づけられました。
もしかしたら「あなたは守られているから大丈夫」という事を知らせるためにこの事を起こしてくださったのかも。
私は改めて信仰生活をしていて本当に良かったと思いました。信仰がなかったら、単に不幸中の幸いだと思い、大事に至らなかったにも関わらず神様に感謝もせず、そのままのほほんと過ごしていたはずです。さらに言えば、神様に守ってもらえず、大変なことになっていたかもしれない。
このサタンが大暴れしている今、信仰のあるなしに関わらず、誰でもサタンの攻撃を受ける可能性はあると思います。しかし、御言葉を知らない人は、それをサタンの仕業とも知らず、ただ「自分は運が悪かった」「自分は不幸な星のもとに生まれたのだから仕方がない」などと考えてしまうでしょう。そして神社仏閣に行って「いい事がありますように」と祈願するかもしれない。その神社仏閣こそがサタンで、自分を不幸にしている元凶であるサタンを拝んでいると知らずに。
神社仏閣に潜む悪魔たち。またはアガルタから悪魔のメッセージを伝える人たち。
神様を信じ、御言葉に聞き従う信仰生活を送れば、神様に守られているという安心感が得られ、実際に守られていると実感できる体験を多々することになります。
今、自分が不幸だと感じている方、辛い思いをして苦しんでいる方、日々不安にさいなまれている方々が、ラプトブログに出会い、信仰を持って、不安の無い日々を送れますよう祈ります。