雨

私は子供のころ、雨が好きでした。

好きになったきっかけは、その頃やっていたサッカーの練習が雨だと休みになるから、だったと思います。

サッカーを始めたのは小学四年生の頃。監督が厳しく、練習も厳しかったため、ずっとやめたいと思っていました。しかし自分からやりたいと言って始めたため、親がやめさせてくれませんでした。

結局、そのまま小学六年生まで止められず、中学に入ってからは友人がいるというだけの理由でサッカー部に入ったので、六年間やっていたことになるのですが、ただ続けていただけだったので、サッカー自体は全く上手くならず、サッカーに対してもあまりいい思い出もありません。

それでも多少の忍耐力はついたのだと思います。なにより「自分がやる」と決めたことはできる限り続けなければならない、という意識は植え付けられたのではないかと。

そして、それこそが、今の信仰生活につながっているのではないか、とも思えます。一度「自分がやる」と決めたのだから、簡単に止めてはいけない。そのような意識が根底にあったからこそ、辛い時にも信仰を離れずにいられたのかもしれないな、と思ったりもします。

しかし「続けるだけ」では意味がないということを、ここになって実感しています。

私は信仰生活を始めてから、あと数か月で四年経つのですが、未だに神様に意識を向けられていない時間が多い日があります。

仕事の日は、忙しくなければいいのですが、忙しくなってしまうと心に余裕がなくなってしまい、仕事のことばかりを考えてしまいます。

休みの日は、子供の相手をしていると、そこにずっと意識が向いてしまい、聖書を読む時間さえも作れない日があるのです。

それでも明け方の祈りの時間は毎日守っているので「信仰生活を続けている」と思っているのですが、それも雨の日となると、危うくなってしまいます。

私はまだ「歩き祈り」に頼っている部分があり、雨の日にクルマで駐車して祈れる場所まで行ってお祈りをすると、深く祈れる日と雑念が入ったり眠気が襲ってきたりする日とがあり、安定的に深くお祈りが出来ていません。

それなのに「続けている」から大丈夫だと思ってしまうことがあります。

しかしながら、ただ「続けているだけ」では上手くなれない、というのは子供のころのサッカーで経験していました。

あの頃は「続けなければ」ということだけでサッカーを続け、サッカーがもっと上手くなりたい、試合に出て活躍したい、という意識がほぼありませんでした。「どうせ俺は上手くなれないし、試合に出てもミスすれば監督に怒られるから、試合にも出たくない」という考えが強く、たとえ試合に出させてもらっても「ボールが来ないように、パスが来ないように」と願ってさえいました。

気を抜くと、信仰生活もそのような状況になりかねない。

「続けなければ」という思いだけで信仰生活を続け、ミスをして神様に怒られたくないから、と神様からのパスを受け取らないようなことになってしまわないようにしなければならない。

ただ「続けていればいい」のではなく「なんのために続けているのか」を考えつつ「もっと上手くなりたい」と祈り求めて、日々全力で努力しなければならない。

自分はそれをしっかりと日々意識しているか? ただ続けているだけになっていないか? 

雨が続いていることでサッカーのことを思い出し、そのおかげで自身の信仰生活への意識を再確認することが出来ました。

歩き祈りが出来ない雨が嫌いになりそうでしたが、雨のせいにするのではなく、雨の日でもしっかりと深く祈れるように、もっと信仰生活が上手くなるように、自分を変えていかなければならない。

これからもしばらく雨が続きそうですので、これを機に、しっかりと自身の信仰を立て直して、信仰をより一層深いものとしていきたいと思います。

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