キリスト教を信じるようになった時

まだ私が信仰生活を始めて間もないころ、クリスチャンの友人に、自分もキリスト教を信じるようになった、と伝えたことがあります。

私はRAPTブログに出会うまで、キリスト教の知識がほとんどありませんでした。興味もなく、自分とは全く無関係な世界だと思っていましたし、大叔父がキリスト教を信じるようになったと聞いても「なぜそんな歳になって宗教を変えられるのか?」と、全く理解できませんでした。

そんな私が、RAPTブログの有料記事を読み始めたことで、キリスト教の素晴らしさを知り、感動し、信仰生活を始めるようになりました。

そしてその喜びを分かち合いたい、という気持ちから、そのクリスチャンの友人に、RAPTブログの事を伝えたのでした。

しかし、その友人は喜んでくれるどころか、私の信仰生活に対して否定的で、しまいには「カルト宗教ではないか?」と疑いまでかけてきました。

私は信仰生活について、明け方の祈りを始めたこと、酒をやめたこと、そして聖書を読み始めたことなどを伝えたのですが、友人曰く「祈る時間を指定するのはおかしい、神様はいつ、どのくらい祈るかなどとは気にしない、神様の下ではみな同じだから、いい人であって、いい行いをしていれば、どのくらい祈ったかなどは関係ない」「酒は禁止されていない、酒が悪いのではなくて、酒に酔って悪い行いをするのがよくないというだけ」「聖書を読むことはいいことだけれど、何世紀も前のことなのだから、ほどほどに」といった感じで、最終的には、ある一定の小さなグループや一人の人に従うべきではない、と言われてしまいました。

その当時、まだ私は信仰生活を始めて間もなかったため、まともな反論が出来ずにいましたが、それでも明け方の祈りの重要性やお酒をやめるべき理由、そして聖書を繰り返し読むべきだ、ということも御言葉から理解していたので、その友人に説得されることはありませんでした。すべてにおいて、有料記事に記されている御言葉ではっきりと分かりやすく、納得できる理由を説明してくださっていたから、相手に惑わされることがなく、信仰生活を始めて少ししか経っていなかったにも関わらず、信仰が揺らぐことがなかったのです。

逆に「まるでパリサイ派、律法学者のように頑なだな」とさえ思ったのを覚えています。

結局、その後、その友人とはRAPTブログについて話すこともなく、私自身、信仰生活を否定されるのが嫌だったので、疎遠となってしまいました。

今朝、ふとそのことを思い出しました。

今だったらその友人の考え方を変えられるだろうか? あれから数年経って、あの当時に比べると自身の信仰は深まったし、多くの悟りを得た。様々な不思議なしるしも体験したから、今伝えれば、もしかしたら考え方を変えられるかもしれない。

しかし「やっぱり難しいだろうな」という否定的な考えが浮かびました。

あれだけ強烈に私の信仰を否定し、自身の信仰を私に押し付けようとしてきたのだし、私よりずっと以前からキリスト教を信じているというプライドもあるだろう。ちょっと前にキリスト教を信じるようになった人間に教えられるなど、ありえない、と思うに違いない。

そう考えると既存のクリスチャンに伝道するのは、無宗教だと言っている人よりも難しいのかもしれないな、と思いました。

以前、既存のクリスチャンに無理に伝道しなくてよい、という御言葉がありましたが、確かに自分の信仰が否定されるだけならまだしも、迫害されたり、信仰を奪われたりしてしまう恐れがあることを考えると、あえて伝道を試みるべきではないのかも。

ただ、その友人に対して、完全に伝道を諦めたわけではありません。

あれからまだ数年。

何の成果も出せていない状態では、説得できるはずもない。しかし、今後もコツコツと日々個性才能を身につけるために努力し、神様を証出来るほどの成果を発揮できるときが来れば、そして何より、RAPTさんが世界的に有名になり、RAPTブログの有料記事に記されているものが、神様からの御言葉だと知られるようになれば、現代の福音が述べ伝えられているという事実が知れ渡れば、その友人も、もしかしたら考え方を改めてくれるかもしれない。

今は、多くの人に伝道出来るようになるためには、なにをすべきなのか、自身の進むべき方向が間違っていないかを神様に祈り求めていきたいです。

同時に兄弟姉妹も天の文化芸術を広められる実力がつき、共に多くの人を伝道出来るようになれますよう、心から祈ります。

#RAPTブログ #クリスチャン #祈り #御言葉 #信仰

おすすめの記事