勧め方

以前、友人にオススメの映画を一本だけ教えて欲しい、と言われたことがあります。

その友人は若い頃に結婚して子供を二人育て上げ、その子供たちが成人して自身の手を離れ、更に離婚して自由の時間ができたので、これまでほとんど観ることができなかった映画を見まくっている、とのことでした。他の友人知人にもオススメの映画を聞いているようで、何本でもよい、となると収拾がつかなくなるから、一本だけ選んで教えて欲しい、と言われました。

私は子供のころから映画が好きで、これまで王道と呼ばれるものからマニアックなものまで、多くの映画を観てきました。当然、好きな映画や勧めたい映画がたくさんあります。ましてや今までほとんど映画を観ていない相手となれば、ぜひ観てもらいたい、と思える作品が次から次へと浮かんできて、自分の頭の中でも収拾がつかなくなってしまいました。

それでもなんとか考え抜き、あまり知られておらず、他の人と被らないような作品を選んで勧めたのでした。

このことが、今朝の明け方の祈りの時間に急に思い浮かびました。

「ん? 伝道もこのようにすべきだということか?」

祈りの最中に思い浮かんだことだったので、そのように考えたのですが、なんとなく違和感を覚え、その後もしばらく祈りを続けていました。

そうしている内に、自身の過ちに気づきました。

オススメの映画を選んでいた時、私は純粋に「いい映画を観てもらいたい」「喜んでもらいたい」と思うと同時に「これは自分のセンスが問われている。なにを選んだかによって、相手の自分に対する評価も変わってくる。だから慎重に選ばなければ」という思いもありました。その友人に「さすがだね」「センス良いね」「いい映画知ってるね」と思われたい気持ちがあったのです。

友人、知人に伝道をしようと心掛けているとき、そのような考えが混じっていないか?

映画を選ぶときと同じように「自分がどう思われたいか」を考えていないか?

「さすがだね!」と思われたいと願っているのではないか?

純粋に良いものだから人に勧めたい、という気持ちはあります。苦しんでいる人々を救いたい、という気持ちもあります。しかしその中に、RAPTブログを勧めた相手に、それを知っている自分はすごい、と思われたい気持ちが混じっているのではないかと思ったのです。そしてRAPTブログを勧めた自分に感謝してもらいたい、という気持ちもその中にあるようにさえ思えました。

すごいのは神様であって、その神様の御言葉を伝えてくださっているRAPTさんなのに、そして、感謝すべきは神様とRAPTさんに対してなのに、私はなにをたかぶっているのだ、私は単にRAPTブログをほんの少し早く知っただけじゃないか、という思いが浮かびました。

もっと混じり気のない純粋な心で取り組まなければ、伝道などできない。

私には、まだまだ人にどう見られたいか、という気持ちが根強く残っています。

人ではなく神様にどう思われるかが重要なのだと、分かってはいるのですが、どうしても人からどう思われるかが気になり、それを基準に行動してしまうことが多い。

以前、御言葉で伝えられたように、これらは長年生きてきた中でこびり付いてしまった垢のようなもので、いくら擦ってもなかなかとれない。

それでも放置しておいたら、更に垢が取れにくくなるだけで、きれいになることはないのだから、気がついたら、その都度、擦り落としていかなければ、少なくともその努力をしなければ、と改めて思いました。

今後も自身の過ちや罪を日々チェックし、まだ気づいていない罪に気づけるよう神様に祈り求め、信仰を更に深くして、多くの人を伝道できるような者になりたいです。

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