慢心

歩き祈りにしろ、山で祈るにしろ、深く祈れるようになっている。
そう書いた矢先でした。

昨日の明け方の祈りですが、目が覚めた直後から嫌な予感がしていました。疲労感が抜けておらず、途中で寝てしまうのではないか、という感覚があったのです。

その時点で歩き祈りに決めればよかったのですが、その日は「御言葉が伝えられない」という記述があったため、ただならぬ事態が起きたのだと考え、とにかく工作員の滅びを祈らなければ、という思いから、それなら集中して祈れる山に行こう、という結論に達し、クルマで山に向かいました。

祈り始めは良かったのですが、しばらくすると眠気の前触れもなく、いつの間にか記憶がなくなっていて、気がついたら三十分ほど時間が経っていました。急いで外気を取り込み、目を覚まして、再度祈り始めたのですが、またすぐに意識を失ってしまう。それを繰り返し、最終的にはなんとか祈ることが出来ましたが、納得の行く祈りとはほど遠く、なぜ歩き祈りにしなかったのか、と帰りの道中に悔いていました。

やはり、自分はもう深く祈れるからどこでも大丈夫だ、と慢心していたのでしょう。一つのことを集中して祈るのには山でなければ、という固定概念に囚われていたというのもあったのだと思います。

そうしたスキをサタンに狙われたのかも。

とにかく満足に祈れなかったことに対して残念な気持ちと、神様、そしてラプトさんに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

ひとつのことを悟ったと思っても、それがズレていたり、全くの見当違いだったりすることが多々あり、なんだか前に進んでいるのか、立ち止まっているのか、後退しているのか分からなくなることがあります。

一人で信仰を守っている以上、自身で試行錯誤して悟っていくしかないのですが、ときに「自分は大丈夫なのか? ダメなんじゃないか?」と本当に不安になってしまう。

ただそれもサタンによる攻撃なのだと考え、すぐに打ち消して悔い改め、とにかく神様に祈り求めるように心がけています。

インスタでの兄弟姉妹の証にも助けられています。皆様の証を読むと、みんな頑張っているのだから自分も頑張らなければ、共に頑張っていこう、という気になるのです。

今朝の明け方の祈りは、起きたときに嫌な予感はなかったのですが、絶対に眠らない歩き祈りにしました。べつに歩き祈りだからひとつのことを集中して祈れないわけではない。どちらかというと山のほうが...というだけのことで、歩き祈りでもひとつのことを集中して祈ることはできる。

そして、実際に今朝は比較的集中して祈ることができたと思います。

ただ、自身の祈りの深さというのがどの程度のものなのか、正直わかりません。もしかしたら、他の兄弟姉妹の祈りに比べたら全く深くなく、とても浅い祈りしか捧げられていないのかもしれない。

そもそも、自分が「深く祈れた!」と思えても、それは自分の基準でしかなく神様の基準ではないと思うと、現状で満足せずに自戒して、もっともっと深く祈ることができるよう、意識して自身を高めていかなければ、という思いに駆られます。

今後も慢心せずに、常に自身の考えを疑って排除しつつ、神様に祈り求め、悔い改めて信仰を深めていきたいと思います。

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