深く祈れる場所

今朝の明け方の時間、まだまだ体調は完全に回復したわけではなく、多少のダルさが残っていたので、歩き祈りではなく、クルマで出かけることにしました。
行き先は前日に見つけた場所。とても祈りやすい場所だったのですが、それが昨日だけだったのか、それとも本当に自分にとって祈りやすい場所だったのか確かめたいという思いがありました。

前日にその場所を見つけるまでには二時間ほど要しましたし、細い山道をクネクネと登ったり下ったりで、大変だったのですが、そこから帰り道をナビでセットしたら、驚くほどシンプルで、数分で山から一般道へ出ることができ、その後、すぐにバイパスに乗れたので、三十分弱で帰ることが出来ました。

歩き祈りを始める前に見つけた場所も悪くはなかったのですが、行き着くまでに三十分以上かかり、細い道も多く、途中鹿に遭遇することもあるような場所でした。それ以外にも新聞配達の人達の原付きの飛び出しなどもあり、運転に集中しなければならず、運転中に神様に意識を向けて祈ることが難しかったのです。しかし、今回の場所は、行くまでがほぼバイパスなので信号も少なく、あえて注意するとすればスピードの出しすぎくらいなので、お祈りすることも賛美することも出来ます。

そして、再度訪れたその場所ですが、本当に祈りやすい場所でした。
クルマの中で目をつぶって集中して祈っていても、全く眠くならず、いつの間にか意識がなくなっていることもなく、深く祈ることが出来ました。

これは神様からの祝福だと思いました。歩き祈りでしっかりと祈れていたから、歩けないときでも祈れるようにと、この場所を与えてくださったのだと。

歩き祈りを始めてから、寒さはありましたが、ずっと穏やかな天候が続き、雨も全くふらなかったので、歩き祈りを断念しなければならない、という状況にはなりませんでしたが、今後のことを考えると、大雨や強風など荒れた天気になることもあるでしょう。そんなとき、以前の場所ですと土砂崩れが心配で行けない。しかし今回の場所なら全く問題がありません。

本当に素晴らしい場所を与えてくださったと、神様に感謝しながら、お祈りをしていました。

しかしながら、喜んでいるだけではいられませんでした。
御言葉で聖書をもっと読むように、と宣布され、それが突き刺さっていたのです。

信仰生活において、聖書がとても重要だというのは、もちろん悟っていました。外出するときは常にKindleを持ち歩き、公共の交通機関利用時や徒歩での移動時間など、空いた時間に読むよう心がけてもきました。それが「良い習慣」だと思っていたのですが、いつしか「空いた時間に読めばいい」という感じで、義務的になっていたのです。
ここでも私の以前からの悪い癖が顔を出しました。そして全く気付かずにいました。

あることで自身の欠点が見つかった時、それに関しては悔い改めるのですが、その欠点が自身の別の行為にも当てはまる、というのはなかなか気付けません。そういった意味でも、これまで積み重ねてきた罪というのはそう簡単には悔い改められないのだな、と思いました。

それにしても本当に毎回御言葉には驚かされます。全体に向けて宣布されているはずのに、個人的な弱点をピンポイントで指摘される。それだけでも神様は私達一人一人を本当に事細かく見てくださってるのだと感じます。だからこそ、集団に紛れてバレないからちょっとくらいズルしても大丈夫だ、とか、少しくらいなら楽をしてもいいか、という気になれないのです。

新たな祈りの場所も与えてくださったことですし、聖書に関しても悔い改め、より一層信仰を深めていきたいと思います。

本当に悔い改めるべきことが多いデス...

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