整理整頓

今朝は月が明るくてきれいでした。

昨日は霊的に鈍感な私でも分かるくらいのサタンの攻撃にあいました。

私の発した全く悪気の無い言葉に対して相手が過剰に反応し、棘のある返答をしてきたり、信仰生活においてよいと思って習慣的に続けていたことが出来なくなるように仕向けられたり。

私が祈りの時間に関してサタンに勝つようになったので、サタンが慌てて攻撃してきたのかもしれません。それまで私は祈りの時間に負け続けていたので、サタンは高を括っていたのでしょう。実際、祈りの時間が守れなければ、他のことをどれだけ頑張っても、あまり意味がない。だから「こいつは大丈夫だ」と思われていたのかも。

それが「歩きながらの祈り」で確実に明け方の時間を守るようになったため、なんとかしなければ、と攻撃してきたのではないかと思いました。

そして、私はその攻撃にやられて、心が沈み、いらだち、周りがクリスマスだと浮かれている中、重苦しい気持ちになっていました。

家では子どもたちがはしゃいでいたのですが、それに同調も出来ず、逆に散らかり放題散らかった子供部屋を見て、苛立ちが増してしまいました。

しかし、普段であれば、息子に片付けるよう言い聞かせるのですが、この時はなぜか自分一人で片付けてしまおうと思いました。

黙々と片付けているうちに、神様に意識を向けられていることに気付きました。神様がそう仕向けてくださったのかもしれません。
それまで、一緒に遊ぼう、としつこくまとわり付いてきた子供たちも、私が片付けを始めてからは、なにも言ってきませんでした。
片付けは単純作業なので、それに関してなにも考える必要が無く、その分、神様に意識を向けることができる。しばらく神様に重い気持ちを取り去っていただくよう祈り求めながら片付けをしていると、次第にそれまでの心の沈みや苛立ちがなくなっていくのが分かりました。

更に、私の考えのズレにも気づくことが出来ました。

それは「物事を習慣化することを目的にしてしまっていないか?」ということでした。

以前から、信仰生活において、よい行いは習慣化すべきだ、ということを常に念頭においていたのですが、最近になって、習慣化したことで、それをすること自体が目的となってしまっていたと気付いたのです。あくまでもなにかをする、というのは目的を成すための方法であって、その目的とは神様のためにつくし、御心を成すこと。だから、たとえ習慣化したとしても、目的を履き違えてしまっては意味がない。

習慣化した良い行いができなくなったとしても、それに代わるよい行いをすればいい。むしろその習慣を続けることにしがみついて新しいことが出来ない、ということの方が良くないのではないか、と思うようになったのです。

その習慣について考え直すいい機会だったのかもしれません。

結果、サタンの攻撃も最終的には益とすることが出来ました。またひとつサタンに勝てたかな?と。

片付けが終わると、部屋もスッキリ、気持ちもスッキリして、穏やかな気持で夕食の食卓につくことが出来ました。

息子は、私だけに部屋の片付けをさせたことに罪悪感があったのか、色々と私の機嫌をとって話しかけてきたので「あの片付け方を見習って、今後はしっかり片付けるように」と言っておきました。
今後、そのとおりに出来るかは分かりませんが、一応、返事だけは素直に言えたので、まぁ、良しとしようかな、と思いつつ、息子に甘いな、と内心自身に対して苦笑いしていました。

ただ、今回、息子よりも神様を第一に考えたことで、息子を無視して冷たいと思われるような態度をとったとしても、何ら関係がこじれることは無いのだと実感しました。

こうしたことの積み重ねで、いずれは私の最大の懸案事項である「二心をなくす」ということが出来るようになっていくのかもしれません。

まだまだ悔い改めなければならないことがたくさんあります。

昨日の片付けのように、散らかった頭の中を整理して、ひとつひとつ片付けていけたらと思います。

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