間違った願望

まだ十代の頃、流れ星を見た際に言う願いの言葉を船乗りの先輩から教えてもらいました。

それは「金、暇、女」それを三回繰り返せばいいということ。

まだ若かった私は「なるほどぉ」と思い、それから、流れ星を見るたびにそれを呪文のように唱えていました。その頃は、たくさんの金と遊べるだけの暇な時間と美しい女性、その三つを得られれば最高に幸せだと信じて疑いませんでした。そしてそれらを手に入れようと願っていたのです。

しかし、願ったところで得られるわけでもなく、そもそも願ったからそれらを手に入れられると本気で信じていたわけでもなく、ただ「それらすべてがあればいいなぁ」「それらすべてを持っている人は羨ましいなぁ」と考えているだけで、悶々とした日々を送っていました。

ラプトブログに出会い、有料記事を読み進めるうちに、それらの三つ、すべてが無意味なものだという考えに変わりました

金がいくらあっても心が虚しければ意味がないし、暇があっても充実したことが出来なければツマラない日々を送ることになる。そしてどうして美しい女性といたかったのか? と考えると、ただ単に周りに自慢したかっただけなのではないか、と思うようになりました。もっとも、ラプトブログに出会った時には結婚をしていたので、それに関しては考えを改める、というよりは、過去の異性の罪を悔い改めなければ、という思いが大きかったのですが。

とにかく私は四半世紀もの間、間違った願望を抱き続け、それを得られず落胆しながら日々を過ごしていたのです。

夢はありました。ある事をやり続け、もしかしたらいつかそれで大成するかもしれない、という淡い期待を持ちつつ、細々と続けていました。しかし、それも「そのことによって名声を得たい。お金持ちになりたい。周りにちやほやされたい」という理由だけで、それ以外にそのことに対して努力するためのモチベーションは得られず、中途半端にやっていて、実際にその分野で成功など出来ないだろう、という考えが常にありました。

ラプトブログで、個性才能を活かして天の文化芸術を広める、という目標を与えていただきました。そして、それは金のためでもなく、暇を作って遊ぶためでもなく、ましてや美しい女性を得るためでもなく、神様のため、人類のため、そして死んだ後も素晴らしい人生をおくるため、という壮大な目的を果たすためでした。

私はそれを知ったとき、カラカラに喉が渇いているなかで、一杯の冷たい水を渡されて、その水を一気に飲み干した時のような満たされた気分になりました。

今まで無意味だと思いつつ、それでも細々と続けてきたことを活かせる。そして正しい目的のために進むことが出来る。

ワクワクして居ても立ってもいられない気分になりました。

退屈だけど、まぁ、ささやかな幸せを得られればそれでいいか、と諦めていた自分の人生が、ガラリと変わったのです。

それからは、日々与えていただいた目標に向かって努力しています。

ただ、最近の御言葉を受けて、自身の個性才能を伸ばすことに関して、正しく祈り求めていなかったのではないか、という思いに駆られました。

これまでも「才能が伸びますように」とは祈っていました。しかし、ただ漠然と祈っていただけで、もっと具体的に、どのように伸ばしたいのか、何をどうしたいのか、といったことを祈ってきませんでした。

「どのようになりたいか」ということを提示せずに、ただ神様に「どうにかいいようにしてください」と丸投げして、任せっきりにしてしまっていたのです。

これでは、いくら求めても、実際にどのようになりたいのか神様に伝わるはずがありません。

もっと具体的にもっと細かく自身の願いを打ち明けて祈り求るべきだ。そして、そのような願いをいくつも提示していけば、その中に神様の意に適った祈りも出てくるだろう。そうすれば、その願いが叶う。

そう思ったら、いつになく明け方の祈りの時間が待ち遠しくなりました。

最近、祈りが形式的になりつつあり、以前のワクワク感を忘れかけていました。
それがもどっだような気分です。

今後は、漠然とした祈りではなく、具体的な祈りをたくさんしていきたいと思います。

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