救う喜び

今朝、明け方の祈りを捧げている際に、ふと、自分は昔から、よく友人知人の悩みを聞いてアドバイスしていたな、ということを思い出しました。

友人から悩みを打ち明けられ、相談されて、それに対して私が思ったことを言ってアドバイスをする、ということがよくあったのです。中学生、高校生の頃は、その大半が恋愛に関することで、男女問わず、相談にのっていました。そして大人になると、恋愛以外の相談も受けていました。別に、そういったことに対して特別な勉強をしたわけでもなかったのですが、なぜか悩みを聞いていると、それに対する解決法やアドバイスが思い浮かんでくる、という経験をしていました。

それらの自身の過去を思い出したことで、あの頃は神様も知らず、真理も知らなかったのに、人に対して偉そうに勝手なことをアドバイスして、いい気になっていたな、と思い、それらを恥る気持ちが生まれました。実際、男性に対してはともかく、女性の悩みを聞き、アドバイスをする時には、少なからず(異性の罪に対する)下心があり、そのような期待のもとでアドバイスをしていた、ということが多々あったからです。そして男性に対しても、自分がよく思われたい、すごいと思われたい、という思いがありました。常に根底には自分中心の考えがあったのです。

相手のことを考えているように見せかけて、実際には自分がいい思いをしたい、という気持ちがあり、それが偽善で、自身の嫌らしさや汚らしさが見え隠れしていたことに気付き、自分の過去に対して、嫌気がさしてきました。

それまで自分の中で美化してきた過去は、実はとてもドロドロとしたサタン的な考えに基づいたものだった。

そう思うと、今まで気づいていなかった自身の罪があぶり出されたような気持ちになり、愕然として落ち込みました。しかし「これではいけない、せっかく気づけたのだから、悔い改めなければ」と奮い立たせ、サタン的思考に飲み込まれないように、と意識を神様に向けました。

そして悔い改めていたのですが、そのうちに「すべてを悔い改めることはない」という考えが浮かびました。たしかに悔い改めるべきところはあるけれど、その相手のことを思い、助けてあげたい、という気持ちはあったはずなのだから、その気持ちは否定せず、むしろそれを思い出して、今後の伝道に役立てるべきだ、と思ったのです。

そもそも、なぜその都度、的確なアドバイスが思い浮かぶのか不思議でした。相手の話を聞いていると、なぜか、それまで考えもしなかったようなことが思い浮かんでくる、ということが幾度となくあり、相手にそれを伝えると喜ばれる、という体験をしていたのですが、何をどう考えたら、そのような考えが思いつくのか、自分でもよく分からなかったのです。

もしかしたら、当時から、そのような霊感を私に与えながら「人を救うことの喜び」を体感させ、その心を備わるようにしてくださり、御言葉に出会い、いざ伝道しよう、と思った時に、その心で出来るように、と導いてくださっていたのかもしれない。

実際に間違った考えは混じっていたものの、悩んでいる相手を救ってあげたい、という純粋な気持ちはあって、悩みは真剣に聞いていましたし、それに対して的確なアドバイスができて、相手が喜んでくれた時には、自分も本当に嬉しく思っていました。

神様に出会い、信仰生活を始め、御言葉に従っている今、その気持ちを今一度思い出して信仰生活を続けていけば、いずれ必ず伝道できるようになる。

明け方の時間、そのような強い思いに駆られました。

以前のような自分中心の考えをすべて取り除き、相手が救われるよう願い、救いの道に導かなければならない。

私の考えではなく、聖書や御言葉に基づいた、神様の考えを伝えて人を救えるようにならなければならない。

それにしても、自分が以前から「人を救うことの喜び」を知っていた、というのに気づき、少し驚きました。そして、単に「人を救いたい」と思うのではなく、人を救うことの喜びを知った上で「人を救いたい」と思うのでは、全く違うな、と感じました。

人を救えば喜ばれ、自分も喜びに満ち、更に神様も喜ばれる。

そのようなことを頭では分かっていたものの、今まで真の意味で悟っていなかったな、とも思いました。

そして、救われた人が人を救う喜びを知れば、それがさらなる伝道につながる。

このようにして、御国がなされていくのだ、と思うと、本当にワクワクした気持ちになりました。

また、今回のことで、何でもかんでもすべて悔い改めるべきではなく、悔い改めるべきことを慎重に振り分けていかなければならない、ということも悟りました。良い行いまで「ダメだ」と思い込んで否定し、悔いてしまっては、それこそサタンの思うツボで、せっかく神様が長い時間をかけて教えてくださったことさえも切り捨ててしまいかねない。

これからも、それが神様の考えなのか、それともサタンの考えが自分に入っていたのか、もしくは単に自分自身の中に芽生えていた自分中心の考えなのか、慎重に見極めながら、悪いことは悔い改め、良いことはそのように導いてくださった神様に感謝すべての考えが、神様の考えと同じになれるよう、もがいていきたいと思います。

#ラプトブログ #信仰生活 #明け方の祈り

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