信仰生活を続けているうちに、どうにもならない湧き出てくる嫌な感情というものを長く持ち続け、流されてしまう、ということがなくなりました。

以前「いつしか人に対する嫉妬心がなくなっていた」と書いたことがあるのですが、信仰を持つ前であれば、一度そのような嫌な感情を持ってしまうと常にそのことを考えてしまい、気になって仕方がなくなったり、苛立ったりしていたのに、信仰を持ってからは、すぐに気持ちを切り替えることが出来て、嫌な感情を持ち続ける、といったことがほとんどなくなったのです。

会社に行動の気になる人がいます。その彼は営業という名目で、毎日のように外回りをしていたのですが、どこに行ってなにをしているのかがいまいち分からない。一応、どの辺りを回っているか、というのは言うのですが、午後は必ずその彼が住む家の方向に向かいます。その方向で営業にまわっていると言うのですが、そんなに毎日行くところがあるのか疑問でした。

そして、どんなに会社が忙しくても、家の事情があるということで、ほぼ毎日五時ぴったりに(外から電話をかけてきて)仕事を終えて、会社車で直帰していました。昼間の二時くらいに彼の家に会社の車がとまっていた、という他の社員の話もあり、サボっているのではないか、と疑いたくもなるような状況がずっと続いていました。

ただ、サボっているという確たる証拠もなく、しっかりとやるべき事をやって、営業にも回っている日があったので、なかなか指摘もできず、ただモヤモヤした日々を過ごしていました。

そして、いつしか私は彼に対して「ズルい」という感情を持つようになりました。少なくともフェアではない。そんなことがまかり通るなら、正直に一生懸命仕事している人が損をするではないか。ズルをしている人が得をするなんてことがあっていいのか? と。

しかし、信仰生活を始め、長く続けていると、いつしかそのようなことがあまり気にならなくなっていました。

彼の行動など、どうでもよく、彼がたとえズルをしたとしても、それが私の信仰生活に大きく影響しない限り、気にすることはない、と思えるようになったのです。

意識を向ける対象が人から神様に変わったことで、人の嫌な部分を見ようとすることが少なくなったからだと思います。そんな人に対する不満、といったような無駄なことを考えている暇があったら、神様に意識を向けていたほうがいい。

ただ、そうは言っても、彼の言動に悩まされることは多々あります。そして、そのことで嫌な思いをすることもたまにあるのですが、以前のようにいつまでも嫌な感情を引きずることはなくなりました。
すぐに神様にその思いを打ち明け、どうするべきか祈り求めれば、不思議と嫌な感情がスッとなくなると知ったからです。

どんなに嫌な気持ちになっても、そのことを打ち明けられる相手がいる、というのは本当に救いです。

しかも、その相手はこの世の誰よりも知恵があり、この世の誰よりも私のことを愛してくださっていて、常に私にとって最良の答えを知っておられる神様なのです。そのような方に頼れるのであれば、たとえなにが起きても絶対に大丈夫。

嫌な思いをしても、神様がすぐに吹き飛ばしてくださる。
普段からそう思えることで、日々の気持ちが軽くなります。

ちなみに、その「ズルい」社員ですが、今現在の私との関係は悪くありません。

数ヶ月前に「他の社員の手前もあるから、週報を出してくれないか」と伝えたところ「前々から営業をしたくはなかった」と言って、それまでしていた仕事を放棄し、誰もが出来る仕事のみをするようになってしまいました。そこで、すべての彼の仕事を私が引き継いだのですが、そこまで大変な思いはしていません。むしろ車移動が増えたので、その間、賛美したり神様からの構想を祈り求めたり、と以前より神様のために時間を有効に使えるようになっています。

そして、その彼がどこで何をしているか分からない、という状態がなくなったので、変に「サボっているのでは?」と勘ぐることもしなくて良くなったので、とても気持ちが楽です。

もしかしたら、彼が営業を辞退するよう神様が導いてくださったのかも?
そうすれば、私が嫌な思いをすることもなくなるから、と。

いずれにしても「なんとなく嫌な気持ち」や「モヤモヤしている」といったことがほとんどなくなりました。

これも信仰生活をしているからこそだと思います。
このような日々に導いてくださった神様、そしてラプトさんに感謝するとともに、今後もこの素晴らしい日々を失わないために、そしてもっと素晴らしくするように、信仰を深めていきたいと思います。

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