家庭に幸せを求めない

私は若い頃から結婚願望というものがそれほどありませんでした。ですから、あまり将来のことは考えず、好き勝手に生きてきたのですが、四十歳になって縁があり、結婚しました。

それまで結婚というものを意識していなかったので、結婚後に理想と現実のギャップに落胆する、というようなことはありませんでしたが、逆に結婚したあとに、どのようにしたら良い家庭が築けるだろうか、理想の家庭像とは? 家族の幸せとは? といったことを考えるようになりました。
しかし、考えているだけでは答えは得られなかったので、ネットで調べたり、本を読んだりして、夫とは、父親とはどうあるべきかを調べ、追求していきました。

そして、夫婦間ではルールが必要だ、という意見を目にすればルールを作ろうとし、夫婦間ではルールを作っていけない、という本を読めばルールを取り払い、キッチンは「妻」の聖域だから夫は入ってはいけない、という記事を読めばキッチンに入るのを控え、家事を手伝うべきだ、と言われれば気まぐれのようにたまに洗い物をする、といった感じで、迷走につぐ迷走を繰り返していました。

その結果、先日書いたように、温厚な妻をヒステリックにさせてしまう、という理想とは真逆の方向へと向かってしまいました。

更に悪かったのは、その後、妻を怒らせたくない、不機嫌にさせたくない、という思いから、妻に対し過剰に気を使うようになったことです。
私としては嫌な思いをしたくない一心での態度だったのですが、妻からすれば「俺は気を使っているんだよアピール」と見え、余計に苛立たせる結果となっていました。

日々楽しく明るく過ごしたい。幸せな気持ちでいたい。

そう願っているのに、実際にはそこにたどり着けず、逆に遠ざかるばかり。

転機はラプトブログに出会ったことで訪れました。
まずはラプト理論で日々感じていた不安が取り除かれ、無駄な「検索」をしなくなりました。
その後、有料記事を読むようになり、神様の存在を知りました。そして信仰生活を始め、理解を深めていくうちに、幸せに対する自身の考えが根本的に間違っていたのだと思うようになりました。
スタート地点も目指すべきゴールも違っていたのだと気付いたのです。

私の考えていた幸せへのスタート地点は、家族のために夫、そして父親としてどうすればいいのか、どのように振舞えばいいのか、ということで、ゴールは家族皆が楽しい日々を過ごせることでした。

しかし、そうではなかった。
夫、父親としてどう家族と向き合うか、という考えがスタートではなく、人としてどう神様と向き合うか。そして家族と楽しい日々を過ごす、といった、ちっぽけなゴールを設定するのではなく、神様のために人類を救えるような働きをするということが目指すべきゴールであり、本来の幸せなのだと悟ったのです。

そして、そのように頭を切り替えると、自らを縛り付けていた「家庭」というくびきから解放されたような、清々しい気分になれました。

それまでは家庭内で何かが起きると「どうしよう」「なにをしたらいいのだろう」「なにを言ったら大丈夫なのだろう」「なにが正解?」と自身の頭で考え、なんとか解決しようと必死になっていたのですが、それがなくなり、その代わりに、何かあると神様に意識を向けて、神様にすがり「解決してください」と祈り求めるようになりました。
そして、そうすることで実際に物事が良い方向に向かうという経験をするようになりました。

もっとも、信仰生活を始めてから家庭の問題が全くなくなったわけではありません。
妻も(ごくたまにですが)不機嫌になることがありますし、子供たちが成長するにつれて、様々な問題にぶち当たり、心配事も尽きません。それでも以前のように自分で色々と調べ、無数の情報から良いと思うものを選別し、それを実践して問題を解決しようとするような無駄なことはしなくなりました。

問題を解決するために、妻や子供たちに意識を向けるのではなく、神様に意識を向け、神様に祈り求めるだけでいい。
なにより「たとえなにか問題が起きても神様が解決へと導いてくださる」と思えることで、日々の生活における漠然とした不安を払拭出来るようになりました。

不安や悩みを抱えて生活するのは本当に辛い。ため息をつきながら重い気持ちで日々を過ごすのは、出来る限り避けたい。特に家庭のこととなると、生活に直結するのでなおさらです。
しかし家庭に幸せを求めるのではなく、神様に幸せを求めることで、私の生活は好転しました。

すべてはラプトブログで学んだことです。

この素晴らしいブログが多くの人に読まれ、私が経験したように、多くの人の人生が好転し、幸せに満たされて日々をすごせるようになりますよう願います。

おすすめの記事