悟ったときの感覚

ここ数日間、風邪気味でした。熱はないけれど、なんとなくダルく、喉が痛い。

子供たちと症状が一緒なので、それがうつったのかな、と思っていますが、自身の体調管理がしっかり出来ていたのか? というと、そこまで意識がいっていなかった気がするので、やはり風邪をひいてしまったのは自分自身の不注意が原因なのだと思います。

私は普段、滅多に薬を飲まないので、このような時に飲むのは少しためらいますが、風邪が長引いてしまうと、倦怠感が増してきて、信仰生活にも影響が出てきてしまうので、早めに治そうと思い、風邪薬を飲みました。

そして、以前であれば「あとは寝る!」というだけだったのが、今では神様に祈り求める、という方法があるので、明け方の時間、そして日中にも「早く治りますように。どうか治してください」と祈っていました。

その甲斐あってか、今日の午後に「あっ、治ったかな」という瞬間がありました。

私はその瞬間が好きです。

身体から風邪菌がスッと抜けていったような、風邪が自分から離れていったような気持ちになって、身体が一気に軽くなって楽になる。鼻かぜの時は鼻がすぅっと通り、喉が痛むときは、喉のイガイガがなくなる。

信仰生活を始めてから、これと同じような感覚が、風邪などの病気が治った時でなくても、感じることがありました。

それは何かを深く悟ったときです。

「そういうことだったんだ」と腑に落ちてすっきりした時に、病気が治ったときと同じような感覚を得ることがあるのです。

今日、そのことを思い出し、もしかしたら何かを悟ったことで、自身の霊が罪によって患っている病(の一つ)が治ったから、そのような感覚を得ることが出来るのかな? と思いました。

そして同時に、最近はあまりその感覚を味わっていないな、とも。

以前悟ったことを忘れてしまっていたり、出来ていなかったりして、悔い改めたり、もっとやらなければ、と思うことはあっても、深く悟って喜びに満ちるという体験が、最近減ってしまったように思いました。

そのことについて考えていると「それは、信仰生活が長いからもうほとんどのことは悟ってしまった、というわけではなく、悟れていないのに『すでに悟った』と勘違いしていることが多いのではないか」という思いが沸き起こってきました。

常に、まだまだ悟るべきことはたくさんある、という思いはあります。まだまだ足りないことだらけだ、という思いも常にあります。
しかし、信仰生活の中で多少なりとも「悟った」とこともあると思っています。ただ、それらの中にもズレていたり、単に悟ったと思い込んでいるだけのことも多々あるのではないかと思ったのです。

そしてそれは「高慢」という罪に繋がっているな、とも。

以前、悟ったと思ったことも、今まで悟れていたと思っていたことも、今一度点検して、間違っていないか、ズレていないか、を確かめなければな、と思いました。

そのためには、もっと御言葉を復習し、聖書を読み込まなければ。

やるべきことはたくさんあります。

時間を無駄にしないようにしていきたいと思います。

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