善い行いを思い出すこと

私は明け方の祈りを始めるとき、初めに神様とラプトさんに感謝をし、その後、毎回自身の過去の罪を悔い改め、信仰生活において間違っている部分、ズレている部分、まだ気付いていない罪について気付けるよう神様に祈り求めるようにしていました。
そして、それらを祈ったあと、悪人の裁きや人々の救いを祈る、といった感じで、まずは自身が罪をなくして清くならなければ、という考えが強くありました。それは習慣化していて、むしろ「それをしなければならない」という脅迫概念のようなものさえあったように思います。

私が御言葉に出会った時、その素晴らしさに感動しつつも、それまで自身が犯してきた罪の重さに愕然とし、ちょっと悔い改めた程度では到底許してもらえないだろう、という思いがありました。そして、自分には信仰生活は無理かもしれない、と一度は諦めかけたのですが、それでも「それまでの罪は神様に出会う前のことだから、悔い改めて神様にすがりつけば許していただけるかもしれない」と考え直し、信仰生活を始めました。

そうして、しばらくはそれらの罪について悔い改めをしていたのですが、その内に「もういいだろう、許してもらえただろう」と勝手に考えてしまうようになりました。

それは、不思議なしるしのような体験をしたからです。明らかに神様が働いてくださったような驚くような体験をしたことで、それまでの罪をすべて許していただけたと勘違いし、過去を悔い改めることをしなくなってしまいました。

元々楽観的な性格だった、というのもあったのだと思います。神様の心情など考えず「もういいか」「大丈夫か」などと自分勝手に考えてしまっていました。

その後、しばらくして今度は裁きのような出来事を体験し、楽観的になってしまっていたことに気付いたため、それを悔い改め、それからは出来る限り過去の罪を悔い改めるようにしてきました。

そして今朝の明け方の時間。

前日に配信された朝会での御言葉を聞いてから、いつもと同じように祈りを始めたのですが「自身の信仰生活においてズレているところを気づかせてください」と祈った時に「なぜそのような事ばかりを祈るのか?」という思いがよぎりました。

そこで、その直前まで聞いていた御言葉を思い出しました。それは「恵みを受けた時に行ったことが正しい行いだ」ということ。

私はこれまで、信仰生活において、自身のダメなところ、出来なかったこと、など、ネガティブなことばかりを思い出し、落ち込み、自身にダメ出しをし、それらについて悔い改める、という事ばかりを行っていて、逆に感動したことや恵みを受けたときのことをあまり深く考えてこなかったように思います。

自身の楽観的な性格を治そうという気持ちもありました。すぐに「大丈夫だ」「なんとかなる」などと短絡的に考えてはいけない。針が真逆に振れたように、とにかく悔い改めなければ、という気持ちばかりが先行していたのです。

もちろん、信仰生活をしてきて受けた感動や恵みは嬉しくて、その時は信仰生活をしてきてよかったと思い、神様に感謝をしていたのですが、それはその時だけで、その後はあまり思い出すこともなく、とにかく罪の悔い改めに意識が向いていました。

ある意味「悔い改め」に囚われていたような気がします。

しかし、それだけに偏ってはダメだ、と気付きました。
良かった時のこと、感動した時のことを、もっと思い出さなければ、と。

そして、最近では何に感動したかな? と考えてみると、聖書を読んでいたときだ、と思い出しました。
今となっては習慣的に読んでいる聖書ですが、列王記でエリヤが登場した時に、なぜか感動して胸が熱くなったのです。

それまで何度も何度も繰り返し読んできて、内容もある程度知っていたのに、なぜか、少し前にエリヤのところを読み始めた時、とても恵み深い思いに包まれました。

それ以前にも、聖書を読んでいて感動する事は幾度となくあったので、そのようになった時は霊が喜んでいるのだな、という感覚はすでにありました。

しかし、今回、あらためて思い出したことで、より一層霊のことを意識し、霊のためにもっと頑張ってあげよう、という気になれました。

更に言えば、私の霊はエリヤが好きなのだな、というのも知ることができました。(私自身はそこまでエリヤのことを意識したことがなかったので、驚きです)

この他にも、文章を書いていたり、讃美をしていたり、考え事をしていた時に、突如感動の涙があふれてくることが、これまで何度もありました。

しかし「そのようなことがあって嬉しかった」と思うに留まり、感謝しつつも、そこまで重要視していなかったのです。

今後、その時何を書いていたのか、どのような気持ちで讃美をしていたのか、どんなことを考えていたのかを改めて思い出し、それを良い習慣として身につけ、その時の思いを常日ごろから持ち続けられるようになりたい。

そして、単に神様に意識を向けようとするのではなく、意識を向けたときの自身の感情が重要なのだという事がやっと悟れたように思いました。

ただ、それが実際にできるか、というのは、また別問題。

今後も善い行いを習慣化し、信仰をより深いものにしていきたいと思います。

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