裁かれた経験

これまでの信仰生活で、私は何度か「裁かれた」「これは裁きだ」という経験をしています。

その時というのは、まるで不意に後ろから棒で殴られて井戸の中に放り込まれたような感覚で(実際にそんな経験はしたことがありませんが)意味がわからず「なぜ?」という思いだけが頭の中を埋め尽くしてしまいます。

もっとも、なぜか分かっていたら裁かれなかったのでしょう。罪をなくすために日々もがいて信仰生活をしているのだから、もし裁かれるほどの罪を犯していてそれに気づいているなら、悔い改めているはず。
それが分からずにいたから、裁かれてしまうのです。

裁かれた直後というのは、呆然としてしまい、なにをしていいのかも分からず、ただただ落胆し、暗い気持ちになって、食べ物が喉を通らなくなるくらい苦しくなってしまいます。
そして「もうダメだ」と思い、信仰から離れようと考えたこともありました。

それでも、少し時間が経つと徐々に冷静さを取り戻し、それまでの信仰生活を振り返り、なぜ裁かれたのかを考えられるようになります。そして自身の罪に気づき、悔い改めようと心に決め、放り込まれた暗い井戸の底から這い上がろうと決意する。
そうやってなんとか這い上がってきて現在に至っています。

もし裁かれなかったら、自身の気づいていない罪について考えることはなかったでしょう。そしてそのまま罪のある状態に気づかず、突き進んでいったと思います。

気付いていない罪というのは本当に恐ろしい。
間違った道を正しいと思いながら疑わずに歩いて行くようなものですから、そのまま行けば、いずれ必ず迷います。そして完全に迷ってしまってからでは手遅れです。正しい道に戻りたいと思っても戻れず、知らぬ場所(サタンの支配下)をさまよい、疲れ果て、サタンの餌食となって、あとは死を待つのみとなってしまいます。

そうならないために、私のためを思って、神様は裁いてくださったのだと思います。
神様は愛の方だと常々御言葉で伝えられています。私のことが憎くて裁くのではなく、私のことを愛してくださっているから、そして裁きほどのショックを与えなければ私が罪に気付かず悔い改めないから、裁いてくださったのだと思っています。間違った道を突き進まず、立ち止まって考え、正しい道に戻るよう導いてくださった。

そう考えると、神様への感謝の気持ちでいっぱいになります。

今後も、というか、今現在でもまだ気付いていない罪があるかもしれません。おそらくあるでしょう。そしてそのまま気付かなければ、いずれ裁かれる。
しかし、もし罪があってそれに気づけないのなら、裁かれてでも気づけた方がいい、と思えるようになりました。

ただ、裁かれないに越したことはありません。裁かれないためにも、気づけていない罪に気づけるよう、普段から聖書を読み、御言葉を復習して罪を探し、神様に祈り求めていきたいと思います。
そして罪に気づくことが出来たら、即座に悔い改めていきたいです。

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