私の霊が私の肉を動かしている?!

私は明け方の祈りを始める前、前日に配信された御言葉を聴くようにしています。

以前、配信が始まった当初からしばらくは、御言葉をいち早く聴きたいという思いから、日中に何度もスマホのブラウザを更新し、アップされたらすぐに聴く、というようにしていました。

しかし、日中は仕事をしているので仕事の合間だったり移動中の時間を使って聴いていたので、途中、仕事の急な対応をしなければならなくなったり、移動時間が終わってしまったりして、聴くことを中断しなくてはならない、という状況が多々ありました。そのため完全に集中して聴くことが出来ていませんでした。

そして「これでは良くない」と考え直し、明け方の祈りの前に御言葉を聞くようになりました。

御言葉を深夜の静寂の中で聴くようになってからは、雑念が入ってくることも少なくなり、より集中出来るようになっていたと思います。

ただ、すべての御言葉をしっかりと吸収出来ているのか、というと、必ずしもそうでない。

「以前も話しましたが」と御言葉の中で以前仰っていたことを再度伝えてくださる時「そういえばそうだった」と気づくと同時に、言われるまでそのことを忘れていた、ということがよくありました。

確かに聞いたはずなのに残っておらず、聞き流してしまっていたり、その後しばらくは覚えていても、いつの間にか忘れてしまっていたり。

せっかく与えてくださったのに、取りこぼしてしまっていました。

ただ、これ以上に集中出来る時間は他に無いし、こればっかりは仕方がないのかもしれない、という思いがありました。出来ることといえば、自身の集中力を高める、そして復習すること以外に方法はない、と。

今朝、いつもと同じように明け方の祈りに入る前に御言葉の配信を聞いていたのですが、途中で、宣布された御言葉をその場で頭の中で復唱するようにしました。同時通訳のようにラプトさんが仰られた御言葉を少し遅れて自分自身の言葉で(箇条書きのようにして)再度言ってみることにしたのです。

なぜ、それをしようと思ったのかは分かりませんが、気付いたらそのようにしていました。

そして、そのようにしていると、御言葉の一言一言がじんわりと自身の体に馴染んでいくような感覚を得るようになりました。単に聞いているのではなく、なんというか、味わっているかのような感覚があったのです。

以前の御言葉で、御言葉を食べ物に例えて「美味しい」と伝えてくださったことがありましたが、それを実際に体感したように思えました。

もしかしたら、私の霊が私の肉にそうさせたのかもしれない。

そのようにすれば、もっと御言葉が自分の体に残りやすくなり、聞き逃すことが少なくなる。

私の霊がそう教えてくれたのかもしれません。

これが最近御言葉で伝えられている「霊が肉を動かす」ということなのかも。

祈りを終えて、このことを書き始めた時にそう思いました。(これを書き出すまでは「御言葉を同時に復唱していくといいな」ということを書こうと思っていただけでした)

まだ、今回始めたばかりなので、今後どのような変化があるか分かりません。

もしかしたら、逆に煩わしくなってしまうかもしれないし、集中力が薄れるかもしれない。

それでも、新たな「御言葉を聞く姿勢」の試みとして、始めてみようと思いました。

それにしても、最近の御言葉のおかげか、自身の霊を意識することが多くなりました。そして霊が意識を向けられて喜んでいるような感覚もあります。

「自分の霊はとても幼い」と学びました。

そう考えると、それまで無視しているに等しかった状態から、意識を向けるように変わったことで、自身の霊が幼な子のように無邪気に喜んでいるのかもな、と思います。

そして、幼いということは、その分、まだまだたくさん成長出来る、成長する余地がたくさん残っている、ということ。

それを知り、希望が更に大きく膨らみました。

子供の頃は「あんなことをしたい、こんな大人になりたい」と大きな夢をたくさん抱いていました。しかし、いつしかそういった夢を失ってしまっていた。その頃の思いを、再度、今度は霊によって抱くことが出来る。そして、霊が成長することで、その失っていた子供の頃に抱いていた夢も叶えられるかもしれない。

本当にワクワクします。

ただ、その肉的な浮かれた気持ちに呑まれてしまわないようにしなければ。

今後もより一層気を引き締めて、信仰生活を続けていきたいと思います。

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