どこかズレている

どこかズレている。

そんな感覚がずっとありました。しかしそれがなにか、いまいち分かっていませんでした。
それが昨日の御言葉で分かったような気がします。

私は信仰生活を始めてから、物事を深く考えるようになりました。それまで適当に物事を考え、なにか起こると「まぁいいか」で済ませていたのですが、それが「これはなにか意味があるかもしれない」と考えるようになったのです。

適当な日々を送る毎日から、日々の生活に対して真剣に向き合う毎日へと変わったのは良かったのですが、考えることに喜びを覚え、次第にその考えに溺れるようになっていました。その考えが神様から来たものではなく、自分自身、またはサタンから来たものかもしれないという疑いもせずに、単純に「考えることはいいこと!」だと思っていたのです。

そして、明け方の祈りでは「神様、教えて下さい」とお願いしていたにも関わらず、自身の乏しい知識を基にあーだこーだと理屈をつけて物事を考え、その自分の考えで「これはこういう意味だった!」と結論づけて分かった気になり、その後で「神様、ありがとうございました」とだけ付け加えていました。

もし自分が同じようにされたら...
誰かが私に悩みを打ち明けて「アドバイスがほしい」と言われたのに、その人は私の話を聞かず、自身であれこれ考えて結論を出し、最後にだけ「ありがとう」と言われたら?
「じゃ、なんで聞いてきたんだろ? わざわざ聞かなくてもいいじゃん。勝手にすればいいのに」と思うでしょう。

そう考えただけでも、いかに自分が神様に対して失礼な接し方をしていたかが分かります。

結局、私は神様に祈り求めていたのにも関わらず、自分自身で物事を考えて解決しようとしていたのです。

サタンに抵抗しよう、サタンと戦って打ち勝とう、という時も「神様、サタンに打ち勝てるよう導いてください」と祈りつつ、どうしたらサタンに勝てるだろうか、もっと聖書を読むべきか、もっとしっかり祈るべきか、もっと賛美すべきか、才能を伸ばすためにもっと努力すべきか、と考えてばかりで、神様にすがり付いて、真心から「神様、助けてください」と完全に身を委ねることをしてきませんでした。

その結果、頭でっかちになり、理屈ばかりが先行して、なにかミスをしても、すぐに理屈で言い訳を考えてしまい、その後、それに気付いて自己嫌悪に陥って深く落ち込む、というような人間になってしまいました。

もっともっと神様にすがりつけばいい。

今、これを書いているときにも、そのような思いが強く浮かんできます。

もっと神様にたよりなさい、と。

私は神様に遠慮していたのかもしれません。

世間一般では目上の人、自分よりも偉い人には遠慮して、物事を頼むなど恐れ多いと思ってしまいます。そして頼み事をするとしても、遠慮がちに「頼まれてくれるだろうか」と疑いながら、お願いします。

無意識のうちに、それと同等に考えていたのでしょう。

ここに「神様は愛の方だ」という考えが欠落していました。

神様は私達を愛してくださっている。そして祈り求めれば叶えてくださる。

そのことに関しては、御言葉で何度も何度も聞き、聖書でも読んでいたのに、知識として知っている状態で留まり、分かっていたつもりで、真に悟れていませんでした。

まだまだ私の中には世間的な価値観、損得勘定、優越感、満足感などが残ってしまっていて「愛」だけの状態には遠く及びません。それでも愛ですべてを行ってくださる神様を常に意識し、神様に祈り求め、神様にすがり付き、神様にたより、少しでも神様が与えてくださっている愛に応えられるよう、今後も信仰生活を続けていこうと思います。

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