信仰生活が楽しくなる

「信仰生活がより楽しくなる」

先日の朝の祈り会にて、そのような御言葉が伝えられたとき、私は本当に胸が熱くなるような感動と共にさらなる希望が自身の中に湧いてくるのを感じました。同時に昨年一年は、苦しいことが多かったな、という思いが浮かびました。

もちろん、苦しみだけがあったわけでではなく、様々な場面で喜びを感じていましたし、多くを悟り、日々の生活の中で希望を持ちつつ信仰生活を送ってはいたのですが、やはり自身に対して落胆することが多かったように思います。というのも、明け方の祈りの時間に深く祈れない日が多々あり、その度に残念な気持ちになっていたからです。

去年の前半くらいまでは、歩き祈りを続けていたからか、歩き祈りを始める以前の悩みであった「明け方祈りの途中でどうしても寝てしまう」ということも減り、明け方の祈りに関しては「満足」とまではいかなくとも「一応はできているかな」という思いがありました。

しかし、去年の半ばから、思うように祈れなくなってしまいました。特に夏には職場で強い風邪菌をもらってしまい、熱が下がらない中、意識が朦朧としながらも人手が少ないから仕事を休めない、という状態が十日ほどあり、そのせいで満足に祈りが出来ずに辛い思いをしました。更にその後も「まだ体調が万全ではない」「今日は足が痛い」「雨が降っている(降りそう)」「昨日は家で深く祈れたから大丈夫」などと考えて、本当は単に面倒くさいから行きたくないだけなのに、自分自身に対して言い訳して歩き祈りに出ずに家で祈る時期が長く続きました。以前であれば、歩き祈りが出来ない日は車で外に出て祈るようにしていたのに、それも億劫になってしまって、とにかく部屋で祈ろうと試み、結局、途中で寝てしまったり、意識がなくなったり、ということが多々あったのです。

満足に明け方の祈りができない。

それは本当に苦しくて「あぁ、また深く祈れなかった。途中寝てしまった」とため息をついて自身の不甲斐なさに落胆し、救ってくださった神様に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、重い気持ちの中、その日一日を過ごす、という日が本当に多くありました。サタンの攻撃もあったのかもしれません。しかし、それも含めてすべては自分自身が至らないから、サタンに打ち勝てるように自分自身が成長していないからだ、と自分を責め、インスタに証を書けない自分を残念に思い、逆にラプトブログプラスαの記事にあげられている十二弟子の方々やインスタに投稿している兄弟姉妹の素晴らしい証を読んで、力をもらっているにも関わらず、羨んだり嫉妬したりして卑屈になっていました。

その間かろうじて、聖書を読み、御言葉を読み聞きし、賛美し、個性才能を伸ばすための努力をしながら、信仰生活と自分をつなぎとめていましたが、明け方に祈ることができなければ全く意味がない、という思いが常にあり、意気消沈していました。

転機は11月11日の祝祭の日だったように思います。その日はとても深く祈ることができ、そのおかげで自身の愚かさに気付き、悔い改めることができました。それからは徐々に深く祈れる日が増え、歩き祈りにも出る気力も湧いてきたのです。

信仰生活は苦行ではない、という御言葉が以前ありました。しかし、そう分かっていても、深く祈れずに苦しくなってしまうと、それまで受けていた喜びが薄れてしまい、苦行のように感じてしまう。そうならないためにも、明け方の祈りは重要なのだと身にしみて感じた一年でした。

今年最初の明け方の祈りは、前年と同じく、歩き祈りは避けました。歩き祈りのルートには大きな神社があり、明け方の時間に初詣で人が多く集まるのが分かっていたからです。(かつて、自分も明け方の時間にその場所に酔っ払って行っていたので、どのような状況なのか知っていて、絶対に近づきたくないという思いがありました)

ただ、家で祈って、うっかり寝てしまうのは避けたい。その思いから、車で外に出て、いつも明け方に車で行っている場所に行って祈りました。

その場所はとても静かで、空を見上げると一面に星がくっきりと浮かび、輝いていました。

そして、その美しい空の下でとても深く祈ることができました。

今年からは11月11日のようにサタンの攻撃がなくなる。そうなれば、あとは自身の罪との戦いのみ。サタンに抵抗しなくてよくなる分、明け方の祈りもだいぶ楽になるのではないかと思います。毎日明け方に深く祈れるようになれば、それだけ信仰生活も楽しくなるのは想像がつきます。そしてそれは大きな希望につながる。

以前からずっと待ち続けていた2023年の今年はどんな一年になるのかワクワクしつつ、楽しい信仰生活をしていきたいです。

兄弟姉妹の皆様にとってもよい一年でありますように。

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