霊魂の悲鳴

私は比較的恵まれた環境に育ってきました。
家は大金持ちではありませんでしたが、経済的には特に不自由なく育ち、親、親戚、友人知人にも恵まれ、人間関係のトラブルのようなものもほとんどありませんでした。毎日の生活にそれほど不満もなく、大病も患ったことがなく、死ぬほどつらい思いをしたこともありません。

もちろん、嫌なことはたまに起こりますが、自身の性格からか、それほど気にすることも落ち込むこともなく、のほほんと生きてきました。

神様が私をラプトブログに導いてくださったのは、霊魂が悲鳴をあげていたからなのだと思います。罪を重ねているのにも関わらず、それを罪と知らず、更なる罪を犯していました。そして私の霊魂が必死に救いを求めていたからこそ、ラプトブログに出会い、霊魂の存在を知ることになった。
しかし肉的にあまり不満のなかった私には、霊魂がどれだけ苦しんでいるのか真の意味で理解できていませんでした。

ラプトブログに出会った当初、人間の罪を知り、自身のあまりの罪深さに愕然として、悔い改めようと、それまでの悪い習慣を断ち切りはしました。そして「悔い改めます」と誓ったのですが、私はそれだけで「私の霊魂が救われた」と満足していました。

それが「義務的」な信仰生活につながっていったのだと思います。

本気で現状を変えたい、今の苦しい生活を変えたい、救われたい、と思って神様にすがりつくことをしませんでした。

自身があまり辛い思いをしていないのに、辛い思いをしている人たちを本当に助けることができるのか? 辛い思いをしている人たちを本当に理解してあげられるのか? そう考えたとき、私にはそれができないのではないかと思うようになっていました。

夏の「痒みの裁き」にしても、ポリポリと痒い箇所をかきながら「神様、なぜ痒いのでしょう?」などと呑気に構えていました。それにさえも真剣に向き合えなかった。

ラプトさんは、二十五年間の練達を受け、苦しみを耐え抜いてきたからこそ、人々の苦しみが理解でき、その苦しんでいる人々を救いたいと本気で祈り、これだけ多くの人を救う働きができているのだと考えると、苦しみをほとんど知らない私になにができるのだろうか、と。

そして、なにも出来ないのなら、いずれ私は裁かれるだろう。いや、すでに山羊として振り分けられているのかもしれない。という考えに至っていました。

自分が霊的に鈍感だから、気付かないだけで、きっと私の霊魂は裁かれ、あとは肉的に裁かれるのを待つだけなのかもしれない、と…

そんな思いがここ数か月常にありました。
特に信仰生活を始めてから三年が過ぎた秋口あたりからずっと。

それがここ数日、明け方の祈りの時間に外に出て歩くようになってから、そんな悲観的な考えが薄れたように感じています。

深くお祈りが出来ているからなのでしょうか。

最近は霊的に成長できるようにとお祈りすることが多くなったのですが、それが功を奏したのかもしれません。
少しずつ霊的にも成長出来てきているのかもしれない。

そして毎朝しっかりと祈れているから、以前のような悲観的な考えにならず、むしろ希望がわくような気持ちになってきているのかもしれません。

以前であれば、祈りの時間に起きる理由として「信仰が奪われたくないから」という、やはり義務的な考えで起きていました。

しかし今は祈りの時間が楽しみになっています。起きるのも全く苦にならなくなりました。

歩き終えた後、多少の疲労感はありますが、それさえも心地いいと思えるようになっています。

今更ながら祈りの重要性を体感している気がします。

やはり頭で考えて理解したと思っていることと、実際に体感して知ることとは違うんだな、自分は頭でっかちだったな、と。

まだまだ理解したつもりでいて、全く見当違いだということは多々あると思います。

今一度自身の信仰を見直して、過去の御言葉を復習し、聖書を読み進め、より一層神様に祈り求めていこうと思います。

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