視点を変える

寝起き直後は本当に油断禁物です。

前日、あれだけ「高ぶってはいけない」と肝に銘じたのにも関わらず、今朝、明け方の時間にアラームで目が覚めると、まずは「あと五分…」などと布団の中から出られず、やっと出たと思ったら、昨日は家で深く祈れたのだから、今日も大丈夫だろう、などという考えが浮かび、そのまま家で祈ろうとしていました。

しかし、その「家で祈ろう」という考えは怠惰な感情から来ていたものだと自分ではわかっていました。支度が面倒だし、外は寒そう。更に窓がガタガタと動く音から風が強いのも分かる。外は嫌だなぁ、という思いが強く、家で祈っていたほうが楽だ、という考えに傾いていたのです。

しかしギリギリのところで、歩き祈りに出ることを決意し、急いで支度をして(普段よりも多めに着込んで)家を出ました。

予想通り外は寒くて、冷たい風が顔に吹き付けてきます。それでも嫌な感じではなく、むしろ眠気が覚めてスッキリとした気持ちで祈りに入ることができました。

歩き祈りでは、いつも家の近くの公園を横切っていきます。

風が強いせいか木々のざわめきがとても大きかったのですが、それは神様が私を励ましてくれているように聞こえました。同時に悪人に対する怒りの声にも聞こえました。励ましと怒り、相対する感情なのにも関わらず、同じ木々のざわめきから同時に感じるなんて不思議だなぁ、などと考えながらも、捉え方や視点の違いで、同じものも違って聞こえるのかもな、と思いました。

確かに、同じことを話しても、人によって全く違った捉え方をすることがあります。

「コロナワクチンは危険だから打たないほうがいいよ」と伝えても「そうなんだ、ありがとう」と聞き入れてくれる人もいれば「なに? 陰謀論を真に受けちゃう人?」と拒否する人もいる。「どこで情報を仕入れているの?」と興味を示してくれる人もいれば「さすが○○(私の名前)さんですね!」と他人事で「それでも自分は打ちます、打ちました」というスタンスの人もいる。

コロナ前までは、なんとなく日本人全体の価値観というのは皆同じで、その同じ価値観を共有しているような感じがありました。少なくとも表向きはそう見えていました。

しかし、コロナ騒動→コロナワクチン接種、という流れになって、自身ではあまり考えずに垂れ流されているメディアをそのまま信じて大多数の意見に同調する人と、「なにかおかしい」と感じてメデイアを疑って垂れ流されている情報を鵜呑みせずに自分自身で調べ、たとえ少数派になったとしても自分の信じる道を行こうという意志を持つ人とに、分断されてきたような感じがあります。

そして、ワクチンを打った人は打たない人に対して「常識がない」と考え、ワクチンを打たない人は打った人を「無知で愚かな人」だと考えて、両者の隔たりが、時を追うごとに広がっているように思うのです。

その違いというのは、それまでは分かりにくかったように思います。実際、それまで色々と世間のことを考えているなぁ、と思っていた友人知人がニュースを鵜呑みにしてワクチンを打っていたり、逆に不真面目で何も考えていないのではないか? と思っていた人が、ワクチンについて危険だと感じて打たないようにしていたりと、それまで表に見えていた印象とは全く違っていた、ということが多々ありました。

やはり表の印象だけで人を決めつけてしまうのは良くないのだな、とつくづく思いました。
同時に、私はそれまで人の中身、本質まで見ようとせず、見た目や表に出ている印象だけで人を判断していたことが多々あったのだな、ということに気づきました。

コロナ騒動、そしてコロナワクチンのおかげで、そういったことがハッキリと分かりやすくなったように思います。今までよく分からなかった隠れていた部分が表面に出て明らかになった。
もしかしたら神様がコロナの一連の悪を許諾したのは、それらを露わにするため、という意味もあったのかもしれないな、と思いました。

そして、明らかになった部分を基準に考えると、おのずと誰がラプトブログを受け入れるか、そしてその先の有料記事にまでたどり着く可能性があるか、がより明確になったように思えます。何も考えずにワクチンを打った人は、おそらくラプトブログに行きついても、それを真実だと受け止めようとはしないでしょう。逆にコロナを疑い、ワクチンを疑う人の中にはラプトブログを真実だと理解し、さらに理解を深めようと考える人もいるかもしれない。

これまでの自分自身の視点を変えて、真実を求める人、救われるべき人に正しく伝わるようにしていかなければな、と改めて思いました。

今後も人々の救いと悪人の裁きを願いつつ、自身の信仰をさらに深めていきたいと思います。

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