善の法則

先日、良い出来事がありました。

普段、小学一年生の息子は歩いて登下校しているのですが、その日は様々な要因が重なって、息子は小学校の友達と二人で、バスで下校することになっていました。

バス通学はしたことがないものの、一応、バスのパスは持っていて、バスの乗り方も練習していましたし、普段バスで登下校している友達が一緒ということ、降りる予定のバス停には、息子の友達のお母さんが待ってくれているとのことだったので、まったく心配はしていませんでした。

しかし、その日、その話を聞こうと家に帰ると、妻が「私がやらかしてしまった」と意気消沈していました。

下校時に息子たちがバスに乗る前、バス停で待っている時に妻がそのバス停に居合わせ(心配になって、念のため見に行ったのだと思います)なぜかその時にランドセルを持って帰ってあげる、といって、息子からランドセルを受け取ったそうです。

バスのパスはランドセルの中でした。

妻と別れた息子はその後、友達と一緒にバスに乗車してパスをかざす時点で、パスが無いことに気付いたようですが、そのままバスに乗ってしまい、そのあとで友達と「どうしようか?」という話になったそうです。

そのバスには他の友達のお兄さんも乗っていたため、そのお兄さんの携帯で連絡しようとしたり、いろいろなことを六歳児なりに考えたそうですが解決策を見いだせず、ついに降りるバス停についてしまいました。

そしてどうしたものか…と困っていると、見知らぬ女性が(子供たちの騒動を聞いていたのだと思いますが)同じバス停で降りるということで、息子の分も支払ってくれたのだそうです。

それだけでもとてもありがたいのですが、そのあと、バス停で待っていた息子の友達のお母さんが、息子に何があったのか聞いたため、その女性に息子のバス代分を支払うと申し出てくださいました。しかしその女性は固辞して去っていったそうです。

結局、どこの誰かも分からず、お礼も出来ずじまい。

妻はその後、そのことについて聞き、息子に謝るとともに「自分に出来ることは、その人にただ感謝すること、そして小学生が困っているのを見かけたら、その子を助けることくらい」と言っていました。

それを聞いた私も同じ思いでした。

以前「ペイフォワード」という映画がありましたが、まさにそのようなことが起きているのだと思いました。

この私の住む町にも善の法則が働いている。

そう考えると、やはり神様は降臨されていて、近くにいてくださっているのだな、という思いが強くなりました。

同時に、私は神様、そしてラプトさんへの感謝の気持ちを忘れていたかもしれない、と悔い改めました。

明け方の祈りの時間は、毎回、最初に神様に感謝の意を伝え、ラプトさんにも感謝し、ラプトさんのため、兄弟姉妹のために祈っているのですが、いつしかそれも形式的になっていたような気がします。そして救われた時、助けられた時の感覚を忘れかけていました。頭で「嬉しかった」「感謝します」と思っていても、どうしても時間が経つとその時の感動は薄れていってしまう。

そのような私の状態をわかった上で、神様は「あの時の感動を忘れないように」と、今回、息子を通じて、その感覚を思い出させてくださったのかもしれない、と思いました。

実際、息子を助けてくれた女性に対して感謝の気持ちがわき「他の人を助けてあげよう」と思ったことで、自分自身が神様、そしてラプトさんに助けてもらった時のこと、御言葉に出会い、救われたと思ったときのこと、また度々助けられた時のことを思い出し、今一度神様とラプトさんに感謝し「今度は自分が今苦しんでいる人を助けなければ」という熱い思いが蘇ってきました。

見返りを求めるのではなく、純粋に人を助けたい、救いたいと強く願って伝道すること。

その重要性を今回の経験で改めて実感しました。

もし息子を助けてくれた女性が、息子の友達のお母さんからお金を受け取っていたら、そこまで考えず「いい人がいたね。良かったね」で終わっていたかもしれません。
しかし、その女性は単に困った子供がいるから、という理由で助けてくれ、全く見知らぬ子のために自身のお金を使い、お返しするという申し出を断り、そのまま去っていった。ここに損得勘定は存在せず、純粋に「困った子を助けたい」という思いだけがあったのだと思います。もしかしたら、神様がその女性にそのようにするよう感動を与えてくださったのかも。

いずれにしても、息子を助けてくれた女性に感謝しています。
私はその女性を知らなくても、神様は知っていらっしゃるはず。神様に、その女性に感謝の意を伝えてください、とお願いするとともに、その女性を含め、この地域の人々が幸せで満たされるように、更にはこの街、この市、この県、この地方、日本全体、そして世界に善の法則が広がり、私の感じている幸せな気持ちが広がりますように、と祈り求めました。

今回の経験はからし種のような小さな出来事ですが、この種が大きく育っていきますよう祈り求めます。

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