義人たちの明け方

今朝は以前のルートを歩いてみました。

ここしばらく、明け方の時間は新しいルートを通るか、もしくは車で山に行っていたのですが、今朝はなぜか以前の道を行こうと思い立ち、河川敷に差し掛かった時に、最近行っていた下流方面ではなく、上流方面へと向かいました。

上流方面に行かなくなった理由のひとつに、途中で改造バイクに乗った一人珍走少年とすれ違った、というのがあります。以前も書きましたが、河川敷の中に爆音を鳴らして入ってきたバイクがあり、それからは祈りを邪魔されたくない、という思いから、下流方面に行くようになっていたのです。

久しぶりの上流方面。
なんだか暗いな、という印象を受けました。下流方面はなんとなく開けている印象があり、更に途中からは土手沿いに公園があって街灯もあるため、多少明るくなっていたので、余計にそう思ったのかもしれません。この日は月が見えなかった、というのもありました。

一歩踏み入れると、闇に呑み込まれそうな気持ちになり、やっぱり止めておこうかな、という気にもなりました。しかし、以前はいつもこの道を通っていたのだし、怖いことなど全くない、と思い返して、上流方面に進みました。

祈りながら歩いていると、ふと、子供の頃「夜中は悪い人だけが起きている。そして外に出ている」と思っていたな、と思い出しました。親に早く寝るためにそう言い聞かされていたのかもしれません。

そしてその考えは、大人になっても変わりませんでした。実際、自身が夜飲みに出歩いて、明け方まで飲んで酔っ払って家に帰る時、必ず罪悪感に苛まれていました。夜の繁華街ですれ違う人達は、いかにも悪いことをしてそうなガラの悪い人が多く、その雰囲気に呑まれていたというのもあったと思います。

深夜は悪人のものだと信じて疑いませんでした。そしてその悪人に混じって夜中に出歩いている自分も悪に染まっている、という自覚がありました。ただ「悪いからなんだ」という開き直りのようなものもありました。べつに、それをやめたからといって、なにか変わるわけでもない、と。むしろ楽しいんだからいいじゃないか、とさえ思っていました。

ラプトブログの有料記事を購読するようになり、信仰生活を始めるにあたり、酒はやめ「悪いからなんだ」という開き直りや「楽しいからいいじゃないか」という投げやりな考えを悔い改めました。

そしてすべてが変わる、信仰によって変えることが出来る、と信じるようになりました。

ただ、当初、明け方の時間に祈ることに対しては「なぜ?」という疑問がありました。夜中は悪人のものなのに、という固定概念があったのだと思います。

そんな中でもとりあえず明け方に祈っていたのですが、御言葉で伝えられる神様の話には矛盾がなく、すべてにおいて納得できる答えがあります。
明け方に祈る理由についても、明確に伝えられていました。

保護中: RAPT有料記事116(2016年10月31日)

この記事を読んでからは、すべてを納得した上で明け方の祈りを守ろうと思うようになりました。

そして深夜、明け方は悪人のものではなく、義人のものなのだと悟りました。

もっとも当初は家で祈っているだけでした。そのため、すぐに眠気に襲われ、度々寝てしまっていました。もっともっと祈りたいのに、どうしても寝てしまう。どうしたら明け方の時間、眠らずにいられるだろうか、そう祈り求め、外に出るべきだ、と思い立ったのが、信仰生活を始めてから二年ほどたった時でした。

それからは訝しがる妻をよそに、明け方の時間に車で外に出て祈るようになったのです。

しかし、それもしばらくするとうまくいかなくなりました。車を駐車してその中で祈っていると寝てしまう。ハッと気がついて、急いで眠気を飛ばして車を走らせ、運転しながら祈る、ということを繰り返していました。

そうしているうちに「歩き祈り」の御言葉が宣布され、それを実行するに至りました。

それからは、たまに山に行くと眠気に教われることもありますが、以前とは比べ物にならないほど、じっくりと祈れる日々を送っています。

そして、その明け方の祈りの時間、私は同じ時間に祈っているであろう兄弟姉妹に思いを馳せて祈っています。
世間が寝静まっているこの明け方の時間に、ラプトさんに従う人たちだけが神様に祈りを捧げている。そう思うだけで、兄弟姉妹が身近に感じて嬉しくなり、より一層、明け方の時間が大切に思えるのです。

それまではずっと、深夜、明け方の時間といえば、悪人がコソコソと悪を行う時間だったのかもしれません。しかし、今ではラプトさんが宣布してくださっている御言葉によって、義人が神様と疎通する神聖な時間となりました。

こうして深夜、明け方の時間も悪人から取り戻し、悪人の居場所をなくしていけば、悪人も滅んでいくでしょう。

今後も明け方の時間を守り、悪が滅び、義人が栄え、そして多くの人が救われるよう祈り求めたいと思います。

そして今回、以前の道を歩いてみて、やはりこっちの道のほうが集中出来ていいかも? と思いなおしました。
固定概念を捨てて、まずはおこなってみて、その時その時の感覚に従うべきだな、と思いました。

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