伝道の意味

先日、市の水道局から電話がありました。

その時は電話に気付かなかったのですが、履歴に○○市水道局○○課と表示されていたため、すぐに折り返し電話しました。(最近は自身の電話帳に登録のない電話番号でも、公共機関のようなところは表示されるのですね)

電話してきた理由は、定期的に取り替えなければならない下水道の機器があり、その工事予告の通知をはがきで送ったのだけれど、機器の納品が遅れているため、工事の日が延びて、秋口になりそうだ、というお知らせでした。

その電話口の方の説明はとても丁寧で分かりやすく、印象が良かったのですが、なんとなく緊張している感じがしました。おそらく、同じ電話を毎日何本もかけ、ぞんざいな扱いを受けたりもしていたのでしょう。精神的に大変なんだろうな、という感じが伺えました。

そこで私は「いやぁ、そんなことでしたか、わざわざありがとうございます。水道局の方からの電話だったので、家のどこか水が出っぱなしで、メーターが跳ね上がった報告かと思ってちょっと心配したんですよ」と軽い口調で返しました。

すると「いやいや、そんなことではないです」と少し笑いながら答え、相手の緊張がとけたのが分かりました。

私は長年、仕事で電話対応もしているので、相手の声のトーンから、その人がどのような心理状態なのか(なんとなくですが)察することが出来ます。そして相手のちょっとした一言で傷つくこともあれば救われることもあることも経験上知っています。

今回の場合「はい、分かりました」で終わることも出来たけれど、私が、相手が伝えたい内容とは関係ないことを言うことで「あなたの電話は迷惑ではなかったですよ。安心してください」という思いが伝えられたらな、それを察してくれたらな、という思いで、あえて、そのようなことを言いました。(実際に「メーターのこと?」と思ったのも事実です。)

その思いが伝わったのか、その後のその方の口調が明るくなり、緊張の糸がほぐれたような感じがしました。
そして雰囲気の良いまま会話を終えたのですが、電話を切ったあと、私は「その方の気持ちを少しでも軽くすることが出来たかもしれないな」と思い、少し嬉しくなりました。
人に良いことが出来たという喜びを感じたのです。

この出来事を思い出し「これは伝道にも通ずることなのかもしれない」という思いが浮かびました。

私はまだ親しい人に伝道が出来ていません。ですから「伝道したい」という思いはあるものの、実際に伝道出来たときの喜びを知りません。

人を救うために伝道する。

神様を喜ばせるために伝道する。

頭では分かっているのですが、それがどういうことか、本当の意味を分かっていませんでした。

伝道すれば、その人は救われる。救われるということは、その人が真の意味での幸せを知り、実際に幸せになることを意味する。その人を幸せにすることで、自分は嬉しくなり、自分自身も幸せを感じることが出来る。

伝道するということは、自分自身をも幸せにする、ということなのだと、今更ながらに悟ることが出来ました。

今回のこのちょっとした電話の会話だけでも「相手を少しは幸せに出来たかも」と思って喜びを感じ、幸せな気分を味わうことが出来たのです。ということは、もし伝道してその人を幸せに出来たら、その時に自分が受けられる喜び、そして幸せな気分はどれくらいのものなのか、今回の何十倍、何百倍も受けられるのではないか、と思いました。

今感じている幸せとは比べものにならないほどの大きな幸せが伝道にはある。

そう思うと「伝道したい」という思いが、これまで以上に強くなりました。

人のため、神様のため、そして自分のためにも、多くの人を伝道出来るよう、日々努力し、神様に祈り求め、信仰をより深めていきたいと思います。

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