渋滞

渋滞にハマりました。

雨の日の明け方の祈りの時間、いつもなら20分程度で行ける場所に、一時間以上経ってもまだ半分までしかたどり着けませんでした。大雨の影響で、高速道路が通行止めになっていたためです。

結局目的地まで行くのを諦め、途中で道をそれて、ドライブしながらの祈りに切り替えました。

私は以前、運転し始めると、どこを通れば一番早く着けるか、どの道が近道か、どこを行ったら混んでないか、などをすぐに考えていました。そして大して到着時間が変わらないとしても、混んでる道でノロノロ行くより裏道で進んで行った方がいいと考えがちでした。

そして、渋滞するとイライラして、横道にそれるタイミングを伺いながら、どうしたら少しでも早くその場所に着けるか、ばかりを考えていました。

しかし信仰をもって時間が経つにつれて、その考えが弱くなりました。

渋滞でもイライラする事が少なくなったのです。

それは車中でも出来ること、すべきことがあるから。

私の場合、ひとりで運転していると神様に意識を向けやすく、祈ったり、賛美したり、構想を得られるよう願ったり、祈り求めたり、悔い改めたり、と様々なことを集中して出来ます。

ですから、歩き祈りが出来ない雨の日の明け方の時間は、駐車して祈っている時間よりも、その場所に逝くまでの道中の方が深く祈れている、ということが多いのです。

ただ、ずっと運転していると精神的にも疲れるので、一長一短ではありますが。

以前は、クルマに乗るとラジオをつけて、なんのためにもならないミュージシャンや芸能人の私生活の話や価値観の話を「くだらない」と思いつつも聞いていました。それは運転中ヒマだから。

しかし今ではラジオをつけるなどあり得ない。
ラジオを聞くことで神様へ意識を向ける時間が奪われる、と思うようになってからは、全く聞かなくなりました。

それは普段の生活においても同じで、以前は、ぼーっとしている時間が多く、休みの日、特に独身で一人暮らしをしていたころは、二日酔いで起きてテレビをつけ、観たくもない番組をただ流し、ネットサーフィン(死語ですね)をして、いつの間にか一日が終わっている、ということが多々ありました。

映画を観たり、読書をしたりもしていましたが、大抵は低俗なものばかりで、今考えると、なんのためにもなっていなかった気がします。むしろ有害だった気さえするのです。

ただその当時は暇な時間に何をしていいのか分かりませんでした。

さすがにゲームは時間の無駄で何も得るものは無いと思っていたのでやりませんでしたが、だからといって有益な何かが出来てはいませんでした。

しかし、信仰生活を始めてからは、どんな時でもどんな場所でも何が出来る。そしてそれは神様のためなのだから、有意義に過ごせていると実感できるようになりました。

まだ、仕事など、他の何かをしている時に、神様に意識を向けられていない時間も多いですが、少なくとも、ぼーっとしている時間は無くなりました。

今後はもっともっと神様に意識を向ける時間を増やせるよう、そして24時間神様に意識を向けて生活できるようになりたいと思います。

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