聖書を理解しているのか

ここ数日、御言葉にて、聖書をきちんと理解しているのかという問いかけがあり、私はとても苦しくなっていました。

実際に理解できているのか? そう問われると、よく分からないからです。理解しているところもあるけれど、理解しきれていない部分も多々あるし、間違って理解している部分もあるのではないか、という思いがあり「理解できてます」とハッキリ言い切れない。

何度か通読してはいるものの、途中、字だけを追ってただページを消化していたところもありました。何度も読んでいるはずなのに、まるで初めて読んだかのような、全く内容を覚えていない箇所も多々あるのです。これでは「理解した」以前に「通読した」とさえ言えない。

私は以前から本を読むのが好きで、小説、ノンフィクション問わずにたくさんの本を読んできたのですが、小説を読んでいた頃は、一字一句きっちり読んで、その情景を思い浮かべたりしながら楽しんでいましたし、ノンフィクションも何を訴えたいのか理解しようと考えながら読んでいました。

しかし、聖書を読むときはどうしても義務的になってしまい「読み進めればいい」という気持ちが大きかったように思います。すべての聖句に深い意味があり、神様の意図があるということを全く意識せず、ただ「読む」という行為をしていただけ。これでは聖書を読んだとは言えません。

聖書の中にも読んでいて「楽しい」と思える箇所と「退屈」だと思える箇所があり、自分の好きなところはじっくり読むのに、その他のところは流すように読んでしまっていました。

そもそも本当に理解しようとして読んでいたのか? という根本的な話にもなってしまいます。
「七回の通読」ということにだけに囚われていて、単に焦って字を追っていただけではないのか、と。

このペースでは七回の通読は無理だ、と思うが故に、いつしか「早く読むこと」を意識してしまっていました。

たとえ七回通読したとしても、理解していなければ全く意味がない。

よく考えてみれば、一度理解してしまえば、次に読んだときには、それほど時間はかからないはずなのです。しっかり理解していないから、何度読んでも時間がかかってしまう。理解したものを読むのと、全く理解していないものを読むのとでは、読む速さが全く違うのだと、今更ながらに気付きました。

今後、聖書を読む姿勢を悔い改め、小説を読んでいた頃のようにその情景を思い浮かべつつ、ノンフィクションを読んでいた頃のように何を訴えたいのか考えながら、回数に囚われず、じっくりと読んでいきたいと思います。

そして神様が私に何を求めているのか、私は何をしたら神様に喜ばれるのか、私が何をすれば多くの人を救えるようになるのかを探し求めたいと思います。

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