外国人とは政治と宗教の話はするな

「外国人とは政治と宗教の話は絶対にするな」

海外で生活をしていた時に、日本人の友人から受けていた忠告です。

宗教と政治に無知な日本人が語ったところで、相手を怒らせるだけだから、ということでした。

その当時、私はまだ若くて無知で、何事にも適当で、物事を深く考えたことがありませんでした。政治にしても宗教にしても、全く興味がわかず、真剣に考えることといったら、どうやったら女性にモテるか、といったことだけだったように思います。

今考えると、本当に呆れてしまいます。

ですから、軽はずみに宗教や政治を語ったところで、相手を怒らせてしまうだけだ、という自覚は有りました。

実際、イスラム教徒のアラビア人に対して「お前の神はどんな存在だ」と執拗に聞いていた友人(日本人ではない)に対して、そのアラビア人が激怒していたのを見て、改めて「宗教」には触れてはならない、と思ったのでした。

ただ、外国人と親交を深めていくと、宗教の話も避けては通れなくなってきます。私は当初「無宗教」と言っていたのですが、そう答えるとなぜ無宗教なのか聞かれます。それに対し、特に理由などないと言うと、それも不思議がられました。

外国人が「無宗教」と言う時には、そこに必ず確固たる強い意志があるように思います。自身の国や影響下にある宗教への嫌悪感が見て取れるのです。ですから、なんとなく無宗教、という状態が、本当に不思議なのかもしれません。

そのような経験を繰り返していくうちに、自分は日本人で、正月には神社に行くし、法事の際には寺に行くから、神道信者であり仏教信者なのではないか、と思うようになりました。「そうか、習慣だと思っていたものは、宗教だったのか」と。

それからは、友人たちに「八百万の神々を信じる神道信者で、同時に死んだら仏教式の葬式をするから、仏教信者でもある」と言うようになりました。

そして、そう話すことで、外国人の友人は納得してくれるようになり、自分自身も神道信者であり仏教徒であるんだなぁ、と自覚を持つようになったのです。

そして、その後、半ば観光目的で伊勢神宮や出雲大社にもお詣りに行ったこともあったのですが、結婚することになった時(まだラプトブログには出会っていませんでした)私は「キリスト教信者でもないのに、教会で結婚式を挙げるのは良くない。それはキリスト教の神様に失礼だ」という理由、そして神社の方が馴染みがあるから、という理由で神前での結婚式を選びました。そしてそれを機に、神棚も買ってみたりしました。

しかし、だからと言って何か特別な体験をしたわけでもなく、神道の神々に守られているという感覚も無かったため、とりあえずの形だけで、信仰が深く入ることはありませんでした。

改めて振り返ってみると、ある意味、私はラプトブログに出会うまで、神様に他の宗教に深入りしないよう守られていたのではないかと思えます。

もし他の宗教を深く信仰していたら、たとえラプトブログに出会ったとしても、有料記事に記されている通りに従うことは難しかったでしょう。

日本で生まれ育ち、宗教に対してはあまり意識をせずに生きてくることが出来た。だからこそ、有料記事の御言葉も、大した抵抗もなく、すんなりと受け入れることが出来たのではないかと思うのです。

実際、この御言葉の内容を海外の友人に伝えても、受け入れるどころか、強い拒否反応を示します。彼らにしてみたら、これまで信じてきたキリスト教の教理が正しいという思いがあるのでしょう。ですから、そこからラプトブログに記されている神様の御言葉通りに軌道修正するのは難しい。

信仰生活を始めてから少し経って、神棚とその周りに飾ってあったお札、お守りなどはすべて捨てました。

もし神道への信仰が入っていたら、罰が当たるのではないか、天罰が下るのではないか、と恐ろしくて、簡単に捨てられなかったのではないかと思います。

しかし、ラプトブログの有料記事に記されていることこそが真実だ、と受け入れ、すんなりと神様を信じることが出来ていたため、それらのモノは、なんの抵抗もなく、家庭ごみとして捨てることが出来ました。

そして、それらを捨てたことで、なにか悪いことが起きた、などということは全く無く、逆にラプトブログの有料記事にある御言葉通りの信仰生活を始めたことで、偶然とは思えないような驚くようなしるしを経験するようになりました。

以前も書きましたが、ラプトさんが伝えてくださる神様の御言葉を日本語で日本人として聴き、読めるというのは、本当に、本当に恵まれていることだと思います。

このことを自覚して、自分がラプトブログに出会えたことが、どれだけ貴重で素晴らしいことかを日々感謝して、今後も信仰生活を続け、より多くの人にこのことを伝えていきたいと思います。

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