迷子になった息子、そして悟り

息子が迷子になりました。

無事に帰ってきたのですが、そこには神様の御働きがあったように感じました。

息子は現在六歳で、一昨日小学校の入学式を終え、昨日が初登校日でした。
家から小学校までは徒歩で三十分程度。バス通学でも良かったのですが、バスの路線上、遠回りをするため、結果的に同じくらいの時間がかかるということで、通常は徒歩での通学にしました。

登校に関しては小学校が私の出勤路の途中に位置していたため、私が早めに家を出ることで一緒に登校出来たため、問題はありませんでした。むしろ、私は一時間早く出勤するため、その一時間を聖書を読むことに費やせる、というメリットさえ見いだせました。

そして登校初日。

朝、バタバタしながらもなんとか時間通りに家を出ました。
それ以前にも二度ほど、試しに二人で歩いたことがあり、今回も通学路を確認しながら、そして、振り返って、帰りはどこを曲がったら良いのか確認しながら、登校しました。
時間もギリギリではなく、少し余裕を持って登校出来たので良かったと思います。

その後、私は一日仕事をしてから帰宅したので、その間に起こったことは妻から聞きました。

帰宅した際、息子に学校初日の話を聞くと、とても楽しく過ごせた、新しい友だちと一緒に笑った、などと言っていたので、良かったな、などと呑気に考えていたのですが、その後、妻から話を聞かされ、大変な一日だったのだな、と思いました。

私が出勤したあと、家には義母が訪れていました。
前日の入学式の間、娘の面倒を見てもらうために、隣町から義母が来てくれていたのですが、義母のクルマから私のクルマに移す荷物があったため、小学校近くの駐車場に並んで駐車し、私が荷物を移しました。あまり時間に余裕がなかったから焦っていたのでしょう。その際、私は間違えて、義母の荷物まで私のクルマに移してしまっていたのです。
入学式を終え、娘を引き取り、用事があった義母は先に一人で帰ったのですが、その後、私のクルマの中に義母のバッグがないか、との連絡がありました。
そのバッグの中には翌日に必要なものが入っていたようで、妻は翌日、息子が小学校から帰宅したあとに持っていくと伝えたのですが、その翌日にあたる昨日の夕方までは予定がないから、ということで、わざわざ隣町から取りに来てくれていたのです。

息子の下校時は、同じ方向の子たちとグループで途中まで一緒に来て、大体のところまで親が迎えに行く、ということになっていました。
せっかくだから義母も一緒にと、娘も連れて三人で歩いて迎えに向かったそうです。しかし、そのグループの中に息子はいませんでした。同じ幼稚園で家の近くだった子はいたのですが、その子いわく、息子は他の方向へ歩いていったとのこと。

そこで妻と義母は周辺を探し回りました。しかし全く見つからない。同じ幼稚園で家が近くだった子のお母さんも一緒になって探してくださったようですが、見つからない。

そんな中、もうひとりの幼稚園で仲良くしていた子のおじいちゃんから、妻にその子が無事帰ってきたとの報告を受けたため、息子が行方不明になったことを伝えたそうです。すると、その子が「息子と一緒に歩いていて途中で別れた」と言っているとのこと。そのおじいちゃんも一緒に探しに出てくれたそうでした。

それでも全く見つからず、しだいに二歳の娘がグズりだしてしまい、娘を抱いて探し回るのも大変だということ、そしてもしかしたら、一人で帰ってくるかもしれないから、ということで、義母と娘は家に帰ってもらい、引き続き、大人三人で探したそうです。

結局、息子は家まで一人で歩いて帰ってきました。

そして家には義母がいてくれたので、家に入ることも出来ました。(我が家はマンションでオートロックなので、中から開けないと入れません)

どうやって帰ってきたかは息子から聞いたのですが、帰りの際、友達との話に夢中になって、最初に曲がるべきところを曲がり忘れてしまい、そのままずっと一緒に歩いていってしまったようでした。そしてその子が「私、ここを曲がっていくから」といわれ、そこで自分が違う道に来てしまったことに気づき、そこから自分で考えて、同じ道を引き返したわけではなかったようですが、なんとか見覚えのある道に戻り、目印にしていたコンビニを見つけたため、そこから自力で帰ってきたとのことでした。

「冒険みたいだった」と言った息子は誇らしげでしたが、その後、急に弱々しい声で「道を間違えた」と言って泣き出しそうになりました。一人で心細く、とても不安だったんだろうな、と思うと胸が締め付けられます。それでもしっかりと一人で帰ってきたことに息子の成長を感じました。

ちなみに妻が家に帰ったのは一時過ぎ、下校時間は十一時半頃だったので、一時間半以上探していたことになります。妻の焦りと不安を察すると身につまされる思いです。

その後、私はすぐに神様に感謝しました。
神様が息子を帰路へと導いてくださったと確信したからです。

小学校のある場所は、馴染みのある家の周辺ではなく、実際に歩いて行ったのは二回だけ、しかもそのうちの一回は、バスで帰ってきたため、実際には一回しか歩いて帰ってきていませんでした。更に、友達と一緒に歩いていってしまった場所は、一度も行ったことがないと思われる道。

まだ六歳で、それまで一人ぼっちになった経験さえなかった息子が、その場所から一人で帰ってこれたというのは奇跡です。これは神様のおかげだとしか考えられない。

更に、なぜ私が義母のバッグを間違えて私のクルマに入れてしまったのか、ということにまで繋がります。

おそらく神様はこのことが分かっていらして、息子が一人で帰ってきた際に家に誰もいないと困るだろう(妻は家でじっと待っていられないだろうから)と、義母を呼ぶために、私にそのような間違いをさせたのではないか、と思いました。でなければ、明らかに義母のバッグだとわかるものを、わざわざ私のクルマに移してしまうような間違いなど犯すはずがないからです。

そして、その日の明け方の祈りの時間。

そのことを感謝していると、私が感じた息子の不安で心細い思い、それは世の中の人が感じていることだから、そのような人達を救っていかなければならない、という思いに駆られました。
神様は、私が息子に対して感じた胸が締め付けられる思いを、全世界の人類に対して感じていらっしゃる。その神様の心情を私に今回の経験を通して教えてくださった。
それがどれほど心苦しいことか。
そして、神様の心情が分かったのだから、それを少しでも取り除いて差し上げなければ。
そう思ったのです。

皆が道に迷い、不安で心細い思いをしている。
それでもそんな思いを押し殺して、歯を食いしばって頑張って生きている。

その不安で心細い思いを取り除いてくれるのがラプトブログの有料記事に記されている神様の御言葉です。神様はその御言葉で正しい道を示し、ゴールへ導いてくださっている。

今回のことで「御言葉で救われた私は、不安も心細い思いもなく迷わずに行くべき道を知っている。だからこそ、人々の不安で心細い思いを察しなければならない。そしてその思いを取り去る方法がラプトブログに記されているのだから、そのことを知ってもらうよう努力しなければならない。伝道しなければならない」と改めて強く思いました。

そのような熱い思いを持って、多くの人を伝道出来るようになりたいです。

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