中心者のために祈る

明け方の祈りの時間、今朝は山に行ってきました。

直前まで歩き祈りをしようと支度までしていたのに、直前になって、ふと山に行こうと思い立って、急遽クルマに乗って山に向かったのです。

そして山に向かっているときにその日の御言葉を聴いていたのですが、なぜ急に山に行こうと思ったのかが分かりました。

「中心者のために祈るため」

以前も書きましたが、私の場合、歩き祈りでは、いろいろなことが頭に浮かんできて、収拾がつかなくなるときがあります。そして、これもあれも、と色んなことを祈っていたため「浅く広く」になってしまい、結局なにひとつ深く祈れない、ということが多々ありました。

深く祈れるときと祈れないときのばらつきがあったのです。

しかし、あの場所に行けば、ひとつのことをじっくりと集中して祈れる。

以前はクルマの中でずっと祈っていると眠くなってしまい、実際に寝てしまうこともあったため、歩き祈りを始めてからは、クルマでいこう、という気にはあまりなれませんでしたが、今は違う。神様に導かれた場所があるので、大丈夫だという確信がありました。

そしてその場所に着き、祈ってみたのですが、目をつぶって集中しても眠気は来ず、ずっと祈ることができました。

この日のために神様がこの場所を用意してくださったのかな? と思えるほどでした。

帰りの道中、御言葉を思い返し「自分中心になっていないか」と自身に問いかけてみました。

常に「神様のため、兄弟姉妹のため」ということを念頭においていたつもりでしたが、改めてそう問いかけてみると、やはり自身のために考え、行動していることが多い。

このインスタグラムに投稿しているのも、私の経験が少しでも兄弟姉妹のためになれば、そして伝道につながれば、という思いで書いてはいるのですが、ときより「自分が良く思われたい」という考えが出てきてしまいます。同じことを書くにしても、こう表現したら自分がよく見られるかな? という下心を持ちながら書いているときがあるのです。

祈りにしても、自身が個性才能を身につければ伝道出来る、と思い、祈り求めているのですが、伝道したいという思いよりも、単に「周りの人にすごいと思われたい」という思いで祈っていることがあります。

やはり頭では、神様のため、兄弟姉妹のため、まだ救われていない人のためにすべてを行わなければ、と分かっていても、実際に自身の中にある自己中心的な考えを完全に捨てて心からそう願って行うのは、本当に難しい。

そして、どうしたらその気持ちを完全に捨てられるのかが、今までいまいち分かっていませんでした。

今回の御言葉で、何をすべきか明確になったので、とてもありがたく思っています。

聖書を読みすすめ、中心者、ラプトさんのために祈ることに集中する。

ということで、今後しばらく明け方の祈りの時間は山に行って祈ろうと思っています。

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