伝道を試みる

昨日、知人に伝道を試みました。

その知人は「現在の世の中の状況は何かおかしい」という危機意識を持っていて、私の陰謀論話(ラプト理論)にも耳を傾けてくれます。そして、前回、数ヶ月前にも、コロナの話から陰謀論の話になり、その延長上でラプトブログを教えていたので、今回、もしかしたら訪れてくれているかも、そして有料記事までたどり着いてくれているかも、という期待を込めていました。

今回もコロナワクチンは危険だ、という話の再確認から入り、その後、ラプト理論プラスアルファの記事の内容などを話しました。

話す内容は理解して聞いてくれている、という感触があったため、そのまま私が信仰しているキリスト教の話、神様の話、霊魂の存在の話、そして信仰生活の話を話していきました。特にどう話そうかと決めていたわけではなく、思いついたことをそのまま話し、出来る限り分かりやすく話すよう心がけました。

「目に見えないものの存在はいると思うし、その存在によって突き動かされている感覚もある」

私が霊の存在について話した時、そういう答えが返ってきたので、本当に伝導できるかも、という期待が膨らみました。

日頃から色々と考えている人だけあって、様々な物事に対してその人なりの解釈があり、御言葉とは全く違った認識も多々あったので、それを丁寧に正すということを心がけたりもしました。

それらもなんとなく受け入れてくれているな、という感覚があり、次第に私は話すこと自体が気持ちよくなっていました。ランナーズハイ、という言葉がありますが、それと同じようにトーカーズハイ、のようになっていたのかもしれません。

そして、一通り話したあとに信仰の四本の柱について話したのですが、明け方の祈りの「一時から四時半に祈りを捧げる」と伝えた時に、急に大きな壁のようなものにぶち当たった感覚を得ました。

「そんな時間に、しかも毎日?」

そんなの絶対に無理、という声が聞こえたような気がしました。

そこで、必死になって朝の祈りの重要性を説いたのですが、それがどれほど伝わったのか分かりません。

結局、最終的に「前教えてくれたラプトっていうブログだよね。読んでみるよ」と言ってはくれたのですが、伝道出来たのかどうか疑問です。

反省すべき点は、途中から相手が話を聞いてくれることをいいことに、聞く側の立場を考えずに自分が話したいことを話してしまったこと。

そして、明け方の祈りの説明のところで、必死さが表に現れてしまったかもしれない、ということ。

必死になることは必要だとは思いますが、話している時にそれを相手に悟られてしまうと「なに必死になってるんだろ? なにか裏があるんじゃないか?」と変に勘ぐられて、逆に内容から遠ざけてしまう気がするのです。

やはりもっと上手に説明して興味をもたせ、うまくラプトブログの御言葉に誘導できるような話術を身に付けなければな、と思いました。

そのためにも更に祈り求め、そして経験を積んでいかなければ。

今後も引き続き、常に伝道を念頭に置きつつ、まずは周りの人にコロナワクチンの危険性を説いていこうと思っています。

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