頑なな人たち

ここ数日、旧約聖書にある出エジプト記のモーセがファラオと交渉した時の記述(7章~11章)が頭に浮かぶことがあります。明け方の祈りの時間以外にもふと気がつくとそのことを考えているといったことがあるのです。

私は聖書を読み始めた当初、その記述の意味が分かりませんでした。なぜそこまでして神様はファラオを頑なにしたのか。何度も何度もモーセをファラオのところに行かせ、イスラエルの人々をエジプトから去らせるよう交渉し、災いを起こし、ファラオが困り果ててイスラエルの人々を去らせると約束させたのに、災いが去るとファラオの心を頑なにして、イスラエルの人々を去らせないようにしたのか。

しかし、何度となく読み返しているうちに、意味が分かってきました。

もし最初の交渉で簡単に去ることが出来たら、イスラエルの人々は手ぶらで去ることになったでしょう。

何度もの交渉があったからこそ、多くのものを携えてエジプトから出ることが出来た。そのために神様はファラオをかたくなにさせたのだな、と。

そう考えているうちに、幾度となくコロナワクチンを打たないよう話して「打つのを止める」とその時には言ったのにも関わらず、心かたくなにして、少し経つと「やっぱり打つことにした」と言ってきたり、実際に打ってしまったりする親や友人知人のことと、そのファラオが重なりました。

もしかしたら、出エジプト記のように、神様は私達に多くを持たせるため、周囲の人々の心を頑なにさせているのではないか、と思ったのです。

実際、皆が頑なになっているのを見て、様々なことを考えました。

なぜここまで危険だと言われているコロナワクチンを打ってしまうのか、なぜ危険だと知り、打たないよう説得されてもすぐに考えを変えて打ってしまうのか、と考え、人々の洗脳の深さを感じたり、同調圧力に屈する弱さ、皆が打っているから大丈夫、という安易な気持ちがあることなどを実感したり、また、なにが真実なのか分からず、本当に不安でつらい日々を過ごしているんだな、と思ったりして、もっと本気になって皆を救わなければ、という気持ちにさせられたりしました。

もし、人々の心がかたくなではなかったら、ここまで深く掘り下げて考えなかったでしょう。

神様は、このことから真実を知った私に、更に多くのことを悟らせようとしてくださったのかもしれない、と思いました。

ただ、色々と悟っただけで終わりにしてはいけない。

ただ単に「危ないよ」「死んじゃうよ」とだけ言ってワクチン摂取を止めるように言うのではなく、その人たちの苦悩や絶望感を理解したうえで、どのようにしたら真の意味で救うことが出来るかを更に深く考えて、実行していかなければ、と思いました。

まだまだ救うべき人、救われるべき人はたくさんいると思います。

諦めずに説得を試み、いずれは伝道出来るよう、今後も頑張っていきたいです。

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