なにを祈ればいいのか

昨日の明け方の祈りの時間、私は具体的な祈りをたくさん捧げようと思い、意気揚々と祈りに出かけました。

そして祈り始めたのですが...

急に何を祈っていいのかわからなくなってしまいました。

個性才能を身につけて天の文化芸術を広げ、多くの人を伝道する。
そして、そのために自分に何をしたいか、というのは定まっています。それが御心かどうかは分かりませんが、少なくともそれをやっていて楽しいし、やりがいを感じているので、今のところはそれをやっていこうと決めています。

しかし、具体的になにを求めるべきなのか、よくわからなくなってしまったのです。
技術の向上は、まずは自身がもっと努力しなければならないと自覚していますし、単に構想をください、というのも、やはり漠然としている。
もっと何かピンポイントで求めたい事はないのか? そう思って考えてみたのですが、何も浮かんでこない。
終いには「何を祈ればいいのでしょうか?」と聞く始末。
そして眠気も襲ってきて、祈りに集中出来ない時間帯もありました。

私は祈りに関して甘く考えていたのかもしれません。

祈ることなど簡単に見つかる、と。

しかし、神様の御心に叶った祈りを捧げるというのは、そう簡単なものではなく、日々の行いや考えを神様に合わせ、常に神様に意識を向けていなければならない。それは御言葉で何度もおっしゃられていることなのだけど、自分はそれが出来ているのか? 出来ていないから、いざ祈ろうとしたときに何を祈っていいのか分からない、という状況になってしまうのではないか?

私の信仰がいつしか生ぬるいものになっていたのだと思いました。

今現在、特に頭を悩ませるような事件もなく、困りごともない状態なので、自分は恵まれている、幸せだ、ラプトブログに出会えて良かった! と現状に満足してしまっていました。ですから、日々神様やラプトさんに感謝はしていたものの、必死で神様にすがりついて祈り求めるということをしなくなっていたのです。

このような穏やかな日々とささやかな幸せを得るために神様は私を導いてくださったのではない。私自身をさらに向上させて、多くの人を救えるだけの力を得させるために、そして真の意味での幸せを得るために導いてくださった。それなのに、まるで丁度いい湯加減の風呂に浸かっているかのように、気分良く呑気に鼻歌交じりで、心地の良い日々を過ごしていました。

こんな事ではダメだ。今一度以前のような熱い思いを自身の中に蘇らせなければ。熱い湯舟に浸かって気を引き締めなければ。

今朝の明け方の時間、そのようなことを意識しつつ、祈りを捧げました。

ただ、そのように意識したからといって、すぐに祈るべきことが見つかる、ということはなく、やはり前日同様、なにを祈るべきか考え、もがきながら祈りの時間を過ごすことになりました。

それでも、途中急に眠気が襲ってくることもなく、集中して神様に意識を向けられたような気がします。

今後も自身の信仰の状態を常に点検して修正しつつ、熱い気持ちで神様に祈り求めていきたいと思います。

#raptブログ #明け方の祈り #ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録3−15〜19

わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、 冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、 冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの 不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
そこで、あなたに勧める。 富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、 目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。

おすすめの記事