守られていたのかもしれない

このところ、ずっと気がかりなことがありました。
それは習慣的に行っていた「歩き祈り」をここ数ヶ月、ほとんどしていなかったということです。

以前、明け方の祈りの時間に睡魔負けてしまっていた日々を送っていた頃に「外に出て歩いて祈ればよい」と御言葉で学び、歩き祈りを始めました。
それ以来、晴れの日は外に出て歩きながら祈り、雨の日は車で外に出て祈りやすい場所に行き、車内で祈るようにしていました。

それなのに、少し前からは「歩き祈り」どころか、車で外に出ることさえしなくなっていました。

その理由は、試しに家で祈ってみたら、以前のようではなく、意外にも深く祈れたからでした。

しかし、それでも毎日深く祈れるわけではなく、たまに眠気に負けてしまうこともある。だから、歩き祈りや車での祈りの日々に戻るべきかもしれない、という考えが常にありました。にも関わらず、明け方の時間に起きてみると、全く外に行く気にならない。それまでは半ば意地になってでも外に出ていたのに、ここ数カ月は起きるたびに「家で祈れるのだから、それでいいじゃないか」という考えに支配され、最近は外に出る支度をしようという考えさえ浮かびませんでした。

そんな中、台風の影響で私の住む地域は、大きな被害を受けました。

私の住んでいる区域は半日停電・断水した以外は、全く影響ありませんでしたが、周りでは浸水被害や土砂災害の被害が出ていて、地域によっては、床上どころか、腰まで水が来た、という話も聞きました。

そして山間部にある叔父の実家も土砂災害にあった、と聞いたので、先日、仕事が休みの日に片付けの手伝いに行ってきました。

叔父の実家に行く途中、少し前まで天候が悪い日に車で行って祈っていた場所の前を通りました。
驚いたことに、そのあたりも土砂災害か水没にあったようで、一面が茶色く覆われていました。冷静に考えれば、その場所は山沿いでしたし、近くには大きな川もあり、更に駐車できるスペースは少し低い場所にあったので、周りで言われている被害の大きさを考えれば不思議ではないのですが、まさかその場所も被害にあっていたとは思いもしませんでした。
もともと私の住んでいる地域は台風災害が少ないので、そのような警戒心は全くなかったのです。

ですから、その光景を目の当たりにして初めて「もし、明け方の祈りの時間に、以前のように外に出る習慣があったら、雨が降っていたあの日は、絶対にあの場所に行っていた。そしてあの日、あの時間にあの場所にいたら、確実に車と共に浸水被害にあっていた」という思いがよぎり、肝を冷やしました。

そして今朝、祈っている時に「明け方の時間に外に出る習慣をやめてしまったのは、その被害に合わないようにするためで、そのように神様が導いてくださっていたのかも」という考えが浮かびました。

そして更に祈っていると
「私が裁きに巻き込まれないように守ってくださったのかもしれない」
という考えが浮かびました。

実は、私はこのところ、自身が裁かれているのではないか、という思いが常にありました。台風の災害もそうですが、少し前には親族が亡くなり、その一週間後に同年代の知人が亡くなる、ということがあったからです。ですから周りで起こる災いや不幸に対して「これらは自分の信仰が生ぬるく、悔い改められていない罪も多いので、義人とは認められず、神様から見捨てられたのではないか」という思いがあったのです。

しかし、よくよく考えてみると、叔父の実家も含め、台風での災害で周りは大変なことになっているのにも関わらず、私自身は最初の半日以後は全くその影響を受けずに普通の生活に戻っていました。むしろその経験で悟った事もありました。
亡くなった親族は、ここ数年は会ったこともほとんどなく、亡くなっても私の生活に支障をきたすことは全くない方でした。
そして亡くなった同年代の知人は、知り合った当時からがん治療を受けていて、私がそれとなくラプトブログで学んだがんの嘘について話したり、抗がん剤が猛毒だということを伝えても意に介さず、医者の言いなりになっていた感じがあったので、悲しいけれど仕方がなかったかな、という気になっていました。

そうして考えてみると、私自身の生活はすべてが順調で、全く問題がなかったのです。

最近、御言葉で「日本人が裁かれる」と伝えられていますが、まさにその裁きを信仰心のない私の身近の人たちが受けているのであって、自分自身に裁きが降り掛かっているわけではなく、私はむしろそこから守られているのだ、と今朝の明け方、祈っている時に気付きました。

そして、自分が裁かれているのかもしれない、と不安になり、神様の愛を疑うという罪をおかしていた事も。

私はそのことを悔い改め、神様に感謝しました。

すると身体が急に熱くなり、涙が溢れ出してきました。

本当に神様に出会えてよかった。
信仰生活をしていてよかった。
心からそう思いました。

まだまだ私には悔い改めるべきことが沢山あると思います。
それでもこの気持ちを忘れずに、今後も神様とRAPTさんに感謝しながら、熱く信仰を守っていきたいと思います。

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