祝祭の日

11月11日の祝祭の日。

明け方の祈りの時間に意気揚々と歩き祈りへと出掛けました。そしてまずは自身が悔い改められていない罪や信仰においてズレているところに、至らないところに気付けるよう、祈り求めようと思いました。

すると、すぐにひとつ、またひとつと頭の中に、自身の中に潜んでいる罪の心や日々の治すべき行いが思い浮かび上がってきました。それらの多くは気付いていたものの治せなかったり、気づかぬふりをしていたようなことでした。

あまりの多さにめまいを覚え、自分のことにも関わらず、戸惑ってしまうほどだったのですが、その中に特に重大な罪の意識が混じっていたことに気付きました。

それは嫉妬心についてです。

私が信仰生活を始めて本当によかった、と心から思える自身の変化のひとつに「嫉妬心がなくなった」というのがありました。
それまで私は人々に対して嫉妬ばかりしていました。金持ち、名誉・名声を得ている人達、イケメン、あらゆる人を羨み、ブツブツと文句を言っていたのです。だからといって努力するのでもなく、自分には無理だと諦めていました。
やっかいだったのは、その嫉妬という感情が現れると自分ではどうすることも出来ず、内面から浮かび上がってくる度に嫌な気持ちになることです。そして、そんな気持ちになっている自分自身が嫌になったりしていました。

御言葉に出会い、信仰生活を始めてからは、世間に対する見方が変わり、価値観が変わり、そのような嫉妬心から解放されました。そして「神様に祈り求めれば自分にもできる」と思えるようになったことで、希望を得て、満ち足りた日々を送れるようになったので、以来、何度も何度もそのことに関して神様とRAPTさんに感謝していました。

しかしここに来て、全く違った方向から嫉妬心が湧き出てきました。最初は心の中で微かにチクリ、と刺されたような感覚でしたが、次第に少しずつ大きくなっていくのがわかりました。そして、そのような感情を少し前から感じていたのにも関わらず、気づかないふりをしていて、そのことが、この日の明け方の祈りの時間に強烈に浮かび上がってきたのでした。

その嫉妬心の矛先は兄弟姉妹に対してでした。

私はここ数ヶ月、あまり「証」を書くことができなくなっていました。以前は書く内容に事欠かなかったのですが、最近は書くことが浮かばず、たとえ浮かんで書いたとしても、そんなこと書いても意味がない、逆に読んでくれた人たちに悪影響を与えてしまうかもしれない、などという考えによって、投稿するのを止めてしまう、ということが続いていました。

そして、その間にも次々に上がってくる十二弟子の皆様の証やインスタでの兄弟姉妹の証を読んで、素晴らしいと思うと同時に羨むようになり、自分にはそのような恵みは受けていないから証をすることができない、と卑屈になっていました。

以前であれば、兄弟姉妹によいことがあれば共に喜び、辛そうなことがあれば神様に状況が良くなるよう祈り求めていたのですが、いつしかそれが出来なくなっていたのです。
表面的には出来ても心の底からではありませんでした。
更にそれが分かっていたのにも関わらず、気づかぬふりをして放置していました。

そのことに気付き、そのことを何よりも先に悔い改めなければ、と思いました。

しかし、なかなかうまくいきません。自然と湧き出てくる感情で、制御しようにも、どうしたらいいのか分からないのです。

そうしているうちに、自分でなんとかしようと思っても無理だ、ということに気付きました。そして、自分の力ではどうする事も出来ないのだから、神様に祈り求めて変えてもらうしかない、と思ったのです。

「神様、どうか純粋な心を私に与えてください。嫉妬心や卑屈な気持ちを取り除いてください」

完全に神様に委ねるつもりで、そのように祈り求めました。するとその瞬間、涙が溢れ出しました。そのことで、正しい祈りを捧げることができたんだ、と思えました。

その後、更に祈り求めていると、自分自身が満たされていなければ、他人に対して純粋に喜ぶことも、苦しみを理解して祈ってあげることもできない、という考えが浮かび、悟ることができました。

まだ、完全に嫉妬心や卑屈な気持ちが取り除かれたわけではないとは思いますが、今後も神様に祈り求めて、純粋な心に近づいていきたい。
そして、心の底から兄弟姉妹のために喜び、心の底から兄弟姉妹のために祈れるように自分自身を完全に変えていきたいと思います。

偽善的であっては、自分自身は多少誤魔化せても、神様は誤魔化せない。

今後、多くの兄弟姉妹が祝祭の日に関する素晴らしい証を投稿してくれるであろう直前に、このことに気付けて本当に良かったです。

そして、これこそが、私にとって、祝祭の日に得ることができた恵みだと思いました。

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