祝祭の日②

11月11日祝祭の日②

朝から車を走らせました。

車内で以前配信されていたNanaさんの歌声に合わせて賛美をしていたのですが、少しすると急に涙が溢れ出てきました。

賛美をしていて涙が溢れてくる、というのは、これまで何度も経験していますが、いつも特別な時に起こります。前回は夏の終わり頃、風邪をひいていてとてつもなくダルく、辛かった時に賛美によって力づけられました。今回はやはり「祝祭の日だから」ということなのでしょう。喜びと感動に満ち溢れ、満ち足りた気持ちになれました。その時、ちょうど渋滞に巻き込まれていて、普段であればイライラしてしまうのに、それも全く気になりませんでした。

ランチの場所は神様に導いてもらおう、と思って車を走らせたのですが全く見つからず、結局仕方なしにスマホで調べました。毎年祝祭の日は普段あまり食べないステーキを食べようと決めているので、ステーキ屋に絞って検索し、そこに行って「お祝いの日だから」と普段であれば絶対に頼まないであろう高いステーキを頼み、じっくりと味わいました。

食事のあと、ふと海に行きたい、という思いがよぎり、海に向かいました。

車を停めて海岸に出ると、しばらくの間、テトラポットに寄りかかりながら、水平線を眺め、やっぱり真っ直ぐじゃん、などと思いながら、美しい自然を創造してくださった神様に感謝しました。

そして神様に意識を向けてお祈りをしていると「祝祭の日だし、何か特別なことが起きないかな」などと期待していた自分が恥ずかしくなりました。この静寂で穏やかな時間こそが、神様が与えてくださっている恵みなのだ、と感じたからです。サタンの攻撃から守ってくださっている一日。雑音もかき消してくださり、時折浮かんでくる雑念も打ち消してくださっている。

そして、この混沌とした世の中で、これだけ穏やかな気持ちで過ごせている人がどれだけいるだろうか、と思い、それを私に与えてくださっている神様に改めて感謝しました。

そのような満ち足りた気持ちでいたのですが、家に帰り、風呂に入っていると「信仰生活は苦行じゃないからな」という声が聞こえた気がしました。

「そんなの分かってる。当たり前じゃないか」

そう答えたのですが、直後に「本当に?」という思いが浮かびました。

もちろん、頭の中では苦行でないことは理解しています。しかし本当に自分は心の底から「苦行ではない」と思っているのか。

そのことに向き合ってみると、自身の信仰に対する考えのズレが浮き彫りになってきました。

明け方の祈りの時間、起きるのは特別苦にならないものの、眠気と戦いながら祈り続ける、というのが大変に思えることが多々ある。そして家や車内で祈っていると、途中で記憶が飛んでしまっていることもある。

一日一時間聖書を読む、というのも「とりあえず読めばいい」と考えて、集中できていない。実際、幾度となく通読しているのにも関わらず、たまに「え? こんな聖句あったかな? 覚えていない」と思う箇所が未だにある。それでは聖書を読んでいるのではなく、聖書に書かれている文字を追っているだけで通読したとは言えない。

賛美も歌えばそれで満足していて、心から神様を賛美しているのか?

一週間に一度の断食は「はぁ、また今日一日何も食べられないのか」と心のなかでため息をつきながら過ごしている。

唯一、個性才能を伸ばすために努力することだけは、心から楽しんでやっているが、それ以外は、まさに「義務的」になっているのではないか。

御言葉にて、幾度となく「義務的にならないように」と伝えられていて、そうならないように、と考えているのにも関わらず、いつの間にか義務的になってしまっている。

今日のような日を毎日過ごせるよう、いや、これ以上の想像を絶する素晴らしい日々を送れるよう、私達を神様が導いてくださっているのに、こんなことではダメだ、悔い改めなければ、と思いました。

しかし、これだけ長い間信仰生活を続けていても治らなかったことが、すぐに治せるとは思えない。

そう思った時、自力で治そうとするのではなく、神様に頼めばいいじゃないか、と気付きました。その日の明け方に改めて悟ったことです。

もう自分ではどうすることもできないのだから、神様に自身を変えてもらえるよう祈り求めるしかない。

そのような結論に至ると、気持ちがスッと楽になりました。

知らずしらずのうちに重くのしかかっていたプレッシャーのようなものから開放された気分になったのです。

祝祭の日、できない自分を責めて苦しみ「悔い改めなければ」と焦るだけではなく、もっと神様に委ねるべきだ、ということを悟ることができました。

祝祭の日を感謝しつつ、今後も信仰を続けていきたいと思います。

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