疎外感の克服

「久しぶりにパーティやりませんか」

一か月ほど前にグループラインでそのようなメッセージが来ました。

まだRAPTブログに出会う前、私は親しい知人で集まってパーティーを企画するようなことをやっていました。営利目的ではなく、ただ単に、友人同士、知り合い同士の出会いの場を提供してカップルをつくり、その先の結婚までいってくれたら嬉しいね、といった趣旨があり、実際に儲けのようなものはほとんどなく、赤字で自腹を切ったりしていたこともありました。

それでも、自分たちも楽しんでいるし、友人知人も楽しめているようだし、そこで知り合って結婚してくれれば、それはそれで人の役に立てるんじゃないか、そんな考えを抱いていました。

しかしRAPTブログに出会い、有料記事で御言葉を学び、信仰生活を始めるようになってからは、そのグループからは距離をおくようになりました。男女の出会いの場を提供するパーティをする、ということは、異性の罪を犯すきっかけをつくる場所を提供する、ということに値し、それは人の役に立つどころか、人を罪に誘う行為だと気づいたからです。
そして悔い改めました。

信仰生活を始めた当初、私はそのグループの中の数人にRAPTブログに出会い、信仰生活を始めたことを伝えました。知人たちは、そのことについて驚いてはいましたが、ある程度は理解を示してくれました。その中でも私よりも年上で、それまで私の話す陰謀論をよく聞いてくれていた方が「きみがずっと真実を探し求めていたのは知っている。それがきみの中での答えだというのなら、その答えを尊重するよ」と言ってくれました。ただ「あまり深入りせずに」と言われたので、おそらく彼には彼なりの答えがあって、それを自分が変えること(伝道すること)は難しいのかもしれないな、と思ったのを覚えています。

その後、しばらくパーティの企画の話は無く、そうしているうちにコロナ騒動もあり、パーティーなどしてはいけない、という空気が漂っていたので、そのグループで集まること自体無かったのですが、ここ最近そういった話も緩くなりつつある中で、久しぶりに「ハロウィンパーティーをやろう」という話になったのだと思います。

もちろん、すでに信仰生活も長く、さらにハロウィンは信仰とは真逆の悪魔崇拝に加担することになる、という思いの私は、その企画に参加しようとまったく思わなかったのですが、それでもそれをどう皆に伝えるか迷いました。

結局、上がってくるグループラインはすべてスルーして、そのまま終えたのですが、それに対して特に何か言われることもなく、後日、別件でそのグループの一人に会って話した時も、まったく気にしていない様子でした。

私は以前、人生において重要なのは、より多くの人と知り合い、共に楽しい時間を過ごすことだと考えていました。ですから、極力皆に気を使い「いい人」に見られようという意識をもって人と接していました。しかし、それが故に、別に相手にとってみたら取るに足らないことでも過剰に反応してしまったり、勝手に妄想を膨らませて落ち込んだり、といったこともありました。そして、友人知人の集まりがあったときに自分にだけ声がかからないと、疎外感を覚えたりしていました。

RAPTブログの有料記事に記されている御言葉に出会ってからというもの、そのような意識はなくなりました。むろん「あまり合わないな」と思う相手に対して、急に失礼な態度をとったり無下に扱ったりすることはありませんが、無理をしてまで人付き合いをすることはない、と思うようになれたのです。そして友人・知人からの誘いがなくなっても、まったく気にならなくなりました。もっとも、以前付き合っていた友人知人の大半は酒飲みで、特に大人になってから親しくなった人のほとんどは酒の場によって親交を深めた感があるので、酒を飲まなくなれば、自然と疎遠になっていくのは当然かもしれませんが、だからといって以前感じていた疎外感や寂しいといった感情はまったく芽生えなくなりました。

これも神様に出会えたからだと思います。もし誰からも相手にされなくなってしまったとしても、神様が相手にしてくださるのならそれでいい、という思いさえありました。

実際には誰からも相手にされない、ということはなく、友人・知人との交友は減ったものの、連絡をとれば以前と同じように接してくれる人がほとんどです。

そして、最近になって、私はあまり連絡をとっていない友人・知人にも積極的に連絡をとってみようと思うようになりました。

それは「日本、そして日本人が裁かれる」という御言葉を聞いたからです。

私は周りの親しい友人知人に全く伝道できておらず、それでも「いつかは伝道したいな」「伝道できたらいいな」などと悠長に考えていました。しかし、日本人が裁かれると聞いた今、そんなにのんびりと構えている暇はない。

そこで、最近は友人や知人の顔が頭に浮かぶと、その人は救うべき人か、伝道できそうな人か、と神様に聞くようにしています。

もし救われるべき人が私の周りにいるのなら、救わなければ。

そして、いずれは個性才能を活かし、多くの人を伝道できるようになりたい。

そう強く願っています。

今後もそのような思いを強く持ちつつ、信仰生活を続けていきたいと思います。

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