悔しい気持ち

昨日、帰宅すると小学二年生の息子が不機嫌でした。

よくあることで、大抵は宿題をやっていなかったり、翌日の支度が出来ていなかったりで、母親に叱られた、というのが理由で、実際昨日もその通りではあったのですが、それでも普段と少し違うな、と感じたので、風呂に入ったときに聞いてみようと思いました。

息子と娘と三人で風呂に入ると、普段通り四歳の娘が眠くてぐずり始めたので、先に身体を洗って風呂から出し、その後、息子と話をすることにしました。しかし、学校で何があったのか教えてくれません。そこで、数日前に話していた話の進捗を聞くことにしました。息子は休み時間に一人で工作を始めたのですが、徐々にほかのクラスメイトも加わってくれて、前日には5,6人で一緒に作っている、と教えてくれました。そして、それをとても楽しみにしていたのです。
しかしそのことについて聞くと「やらなくなった」と言って、急に涙を流し始めました。

それから、少しずついきさつを話してくれました。
昨日は皆が飽きてしまったのか、他のことに興味が向いたのか、一緒にやってくれなかったのだそうです。ただ、普段からあまり周りの子を気にせず、やりたいことがあれば一人でもやり続ける性格だったので「別に続けたいんだったら、一人でも気にせずに続ければいいじゃん」と言ったのですが、その前にみんなで盛り上がった際、その中の一人が「みんなで協力して一緒に作っていこう、一人では勝手に進めないようにしよう」というルールを決めたから出来なくなってしまった、とのこと。
息子は純粋に工作をしたかっただけなのに、ほかの友達が加わったことで、思うように出来なくなってしまったようでした。

そして「せっかく始めたのに途中で辞めてしまったら意味がない」と言って、悔しそうにボロボロと泣き始めたのです。

私はそんな息子を見て、ハッとさせられました。

自分は大人になってから、泣きたいほど悔しかったことはあっただろうか? と思ったのです。さらに、信仰生活を始めてからも、そのような気持ちになったことがあっただろうか? と。

これまでに悔しい思いをしたことは多々あります。ただ、信仰生活を始める以前は、すぐに「まぁいいか」と自身の気持ちをごまかして、うやむやにしてきていました。

信仰生活を始めてからは、ごまかすのではなく、神様に意識を向けることで、落ち着きを取り戻すことが出来ていました。ですから、そのことに関して、神様に出会えてよかった、と感謝していたのですが...

では、自身の信仰生活についてはどうか? 明け方の時間に深く祈れなかったときはどうか? 一日の内で一時間の聖書を読む時間を作れなかったときはどうか? 神様について友人知人に話したのに軽くあしらわれたときはどうか? 仕事に追われて長い時間神様に意識を向けられずにいた時はどうか? 神様のため、伝道のために自身の才能を伸ばす努力する時間を丸一日作れなかったときはどうか?

それらが出来ず、悔しくなかったのか? 

もし、それらがサタンからの攻撃だったとしても、それならサタンに負けたことが悔しくはなかったのか?

悔しがるべきことはたくさんあったのに、それらを本気で悔しがって神様に祈り求めていただろうか? 「まぁ、いいか」で済ませてしまってはいなかったか?

そもそも、純粋に「悔しい」という気持ちになれていなかったのではないか?

やはり、私の中で、信仰に対して未だ冷めている部分が残っているのではないか、と思いました。

息子(子供)のように純粋な心で物事を受け止めず、悔しいと思わず、また、そのような悔しい気持ちを、息子が私にしたように、素直に神様に打ち明けずにいたことに気付いたのです。

悔しい思いをしたら、素直にその気持ちを神様に打ち明ければ、必ず気持ちをすっきりと晴らしてくださる。

しかも、今年に入ってからは、祈りが驚くほどのスピードで叶えられているのを、実際に体験しているのにもかかわらず、打ち明けることさえしていなかった。

そのように思うと、本当に自分はもったいないことをしているのだと気付きました。

明け方深く祈れなかったら深く祈れるように祈り、聖書を読む時間が作れなかったら作れるように祈り、神様について軽くあしらわれたら、あしらわない人に出会えるよう祈り、長い時間神様に意識を向けられなかったら向けられるように祈り、才能を伸ばす時間を作れなかったら作れるように祈ればいい。

もしサタンに負けたのだとしたら、勝てるように祈ればいい。

悔しいと思う気持ちを素直に受け止めて認め、打ち明けて祈り求めればよいのだ、と改めて思いました。

風呂では、息子に「その悔しいという気持ちはとても大切だし、ほかの友達がどう思おうとそれに流されずに、やり続けたい、という気持ちを持てるのはとてもよいことだと思う」と言うにとどめ、明け方の祈りの時間に「どのようなことがあっても、息子が正しい考えを持ち続けられますように」と神様に祈り求めました。

純粋、といった意味では、息子から学ぶことも多い。

まずは自身の冷めている部分を徹底的に探し出し、悔い改め、より熱い信仰生活をしていかなければ。

#Raptブログ #信仰生活 #悔しさ #小学二年生

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