以前嫌いだった人のために祈る

以前も書いたのですが、私はこのところ、明け方の祈りの時間に、海外の友人知人を思い浮かべて彼らが救われるよう祈っています。

ただ、そのようにしていると、その友人知人との思い出が蘇ってきたりすることが多々あり、それに引きずられてしまうと祈りに集中できなくなるので、極力そういった思い出は排除して「救われるように」ということに意識を向けるようにしています。

今朝の明け方も同じように祈っていたのですが、ふと、救われるように祈っている相手が、自分の好きな人だけに絞っていて、自分が嫌いだった人や嫌なことをされた人、そして自分のことなど全く覚えてもいないし気にも留めていないだろうな、という人に対しては、救われるよう祈っていないことに気付きました。

おそらく、前日に読んだRAPT理論+αに掲載されている連載マンガ「成約のあの日へ」の「第13話・出会いと別れ」での内容が頭に残っていたからでしょう。

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第18章には『あなたに行っておく。七回どころか七の七十倍までも許しなさい」 …とあるように、神様の深い愛にならって人間同士も互いに許し合うことの大切さが書かれています。

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私は何十年も前にされた嫌な事に対して、その相手を今でも許していないことに気付きました。

というか「どうせその人とは、もう一生会わないのだから、どうでもいい」と思い、そのことに関して深く考えもせず、放置していた、と言ったほうがいいかもしれません。どうこう考えたところで、その相手に自分の気持を伝えることもないだろうし、何も変わらないのだから許す、許さない以前に、それについて考えること自体が無駄だ、と排除していたように思います。

信仰生活を始め、御言葉を学んでいくうちに、霊体の存在について知りました。
そして、以前の証にも書きましたが、明け方の祈りの時間に、遠く離れた外国人の友人の救いを祈っていたら、それまで何年もの間連絡をとっていなかったその友人から、翌日にメールが届いた、といったことが幾度となくあり、そのたびに、目に見えなくとも霊体は存在するんだ、ということを実感していました。

もう一生会わないかもしれない、と思っている相手でも、霊体同士であれば会うことができるのかもしれないし、肉体はともあれ、霊体は救われたいと思っているはず。

そう考えると、いくら距離が離れていても、そして肉的には一生会えないかもしれないとしても、その相手を思って(もしその人に対する怒りがあるのであれば、許して)その人のために祈ってあげることも必要なのだと思いました。

更に、昨日(23年5月7日)の御言葉の中に「神様がお選びになる基準は、人間には分からない」というお話がありました。

たとえ私が個人的に嫌いだったり、嫌な人間だ、と思っていたとしても、それは単なる私個人の自分勝手な感情であって、もしかしたらその人は神様がお選びになっている人の一人かもしれない。

そう思うと、私の好き嫌いで、救いたいと祈る人を選別してはいけない、という思いがなおさら強くなりました。

そもそも、何十年も前のことで、信仰生活を送るずっと以前の完全にサタン的思考に侵されていたころの自分の考えです。正しいわけがない。

そして、せっかく私が救われたのだから、たとえ私にとって嫌な相手だったとしても、知り合っている以上、その人のことも救われるよう祈るべきだ、と悔い改めました。

ここまで書き終えて、改めて霊の存在を意識したことで、今、とてもとても世界が広がったように感じています。まさに「目が開かれた」ような気持ちになりました。

視野が広がり、今まで以上に多くの人のために祈ることができると感じだからだと思います。

肉の世界だけで考えると、狭くて窮屈で、無力に感じることでも、霊も含めた世界に生きていると考えると、本当にすべてが無限に広がり、その広い世界に解き放たれたような開放感があって、さらなる希望に満ちあふれてくる。

このような感覚は、信仰生活を送り、御言葉を信じていないと感じられないのだろうな、と思うと、本当に神様、そしてその御言葉を伝えてくださっているRAPTさんに対して、感謝の気持ちでいっぱいになります。

今後も希望に満ちた信仰生活を送っていきたいです。

#RAPTブログ #霊体 #御言葉 #信仰生活

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