深く祈れる日とそうでない日の違い

数日前の明け方の祈りの時間、なぜかとてもウキウキした気分になっていました。

なんだかスキップをしたい気分で、身体が軽く、深く祈ることも出来て、なぜだろう? 普段とそれほど変わったことはしていないのに、と思ったのですが、その日の御言葉を聞いて「なるほど」と思いました。おそらく私の霊になにか良いことがあって、その喜びが肉の私にも伝わってきていたのだと。

ということは、多少なりとも以前よりは霊的に敏感になれてきたのかもしれない。そう思うと、より一層頑張ろうという気になれました。

そんな、霊的な喜びを感じた明け方でしたが、その次の日、明け方の時間に雨が降っていたので、歩き祈りは出来ず、やむを得ず車で家を出ました。ただ、その日は私はいつも雨の日に行っている場所ではなく、以前よく車で行っていた場所に行ってみようと思いました。

私は晴れている日は歩き祈り、雨の日は車で山に行って車内で祈る、と決めているのですが、以前まだ歩き祈りをしていなかった頃に行っていた場所は、深く祈れる日よりも寝てしまう日の方が多かったため、半年ほど通った後に場所を変えた経緯があります。友人が借りている土地だったため、夜間は誰も来ず、安心して留まれる場所ではあったのですが、どうしても眠気に襲われてしまう。
私は当時、それがサタンの攻撃だと思っていました。そして霊的にあまりよくない場所だったのではないか、と考え、場所を変えたのでした。

しかしハルマゲドンが終わり、サタンの攻撃が弱まった今なら、そして以前より霊的に敏感になれたのかもしれないと思えたのだから、その場所でも深く祈れるのではないか。

ふと、そのように思ったのです。

今、雨の日に行っている場所は、片道30分と遠く、しかも最近は見つけた当初ほど深く祈れなくなってしまったので、もしその場所で祈れるなら、またそこに戻すのもいいかも、という考えも浮かびました。

結果は、微妙でした。

最初の一時間ほどは深く祈れたものの、その後眠気が襲ってきて祈れなくなってしまいました。

以前とあまり変わりがない。

もしかしたら、当時もサタンに攻撃されていたのではなく、単に自身の弱さがそうさせていただけなのかもしれない。だとしたら、その弱さを克服しなければ、この明け方の祈りの眠気も克服出来ない。

私の明け方の祈りは、その前日の日中の行動に影響されがちで、体力的に疲れていたり睡眠が短いと、どうしても影響が出てしまいます。ただ、たとえ疲れていたとしても、そして睡眠が短くても、深く祈れる日もあります。

「霊的にやっていれば疲れない」という御言葉が出ていて、理解しているつもりではあるのに、霊的にやったと思えた日でも深く祈れない日がある。

やはり、それは自分流にやってしまっていたからなのかもしれない、もしくは「義務的」にやっていたのかも。

本当にしっかりと御言葉通りやっているのか。熱心に愛をこめて神様のためにすべてのことをおこなっているのか。

喜びを感じられる日と眠気に負けてしまう日の差は何なのか。

今一度、このことをチェックして、信仰をより深いものにしていきたいと思います。

おすすめの記事