断食祈りのズレ

数ヶ月前、私は「昼食を抜いてみよう」と思い立ち、それ以後、昼食を取る機会を減らしてきました。そして、毎日、とはいかずとも、以前のように、大してお腹が空いていないにも関わらず、お昼だからといって無理に昼食をとるようなことはなくなり、空腹を感じたらその時に軽食で済ます、といった生活に変わりました。ただ当初はそのようにすることで、昼食時間を聖書を読む時間に充てられる、と思っていたのですが、実際にはそのようにはいかず、昼食をとらなくてもいいから、という理由で、その時間も区切りをつけずにダラダラと仕事をしてしまう、という、何のために昼食を抜こうと思ったのか分からないような日も多々ありました。

神様のため、信仰のために行おうとしたことなのに、いつしか自身の生活に溺れてしまっていました。

今朝の明け方の祈りの時間にその事に気付き、悔い改めようと思ったのですが、それ以外にも悔い改めるべきことがあると気付きました。

それは自身の断食祈りに対する姿勢です。

この事については数ヶ月前に書いたのですが、最近は断食が以前ほど苦にならず、断食後の暴食も抑えられてきているので、悪くないな、とは思っていました。ただ、断食したのに深く祈れない、という日が多々あり、どうしてなのだろう? と疑問に思っていました。

断食が義務的になっている、というのは以前から感じていました。ですからそれを悔い改めなければ、という思いはありました。しかし、だからといってどう悔い改めていいのかがよく分からない。断食前日は「あぁ、明日は断食の日かぁ」と少しテンションが下がることはあっても「良い習慣」として身についてきた感覚はあったので、続けてきたことに意味はあったのだと思います。

しかし、断食をしたのだから深く祈れると期待しているのに、深く祈れない。

そう考えた時に、自身の「ズレ」に気付きました。私は無意識のうちに、断食をすれば無条件に深く祈れるのだろう、と決めつけていたように思います。そして断食をする際、肉ばかりを意識して行っていたな、ということに気付いたのです。断食をすることの真の意味は、肉的欲求を削り、霊的に研ぎ澄まされるためなのに、私は「食欲が薄れて良かった」「断食後の食事はより一層美味しく感じられる」などと、肉的なことばかりに目を向け、霊的なことに意識を向けていなかった。

これでは、いくら断食をしたところで、意味がありません。

ここ最近は特に霊的成長をしたい、と祈り求めているのに、信仰生活自体を肉的な動機で行っていたのだな、と改めて気付きました。

まだまだ肉の意向が強い。そして長年の考え方、行動の動機はそう簡単には変えられない。そして、それでも諦めずに根気強く、コツコツと積み重ねてやっていくしかないのだろうな、という結論に至ります。

積み木は一つずつ積み重ねていけば高い塔になりますが、途中でズレて積んでしまい、そのままその上に積み重ねていくと、いずれバランスを崩して倒壊してしまいます。
義の条件もそのようなものなのかな? とふと思いました。
ズレに気づかずに積み上げ続けたら倒壊してしまうかもしれない。

ですから、ズレに気付いたらすぐに真っ直ぐに修正して、ただしく義の条件を積み上げていきたいと思います。

そしていつの日かそれが天にまで届きますように。

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