漠然とした祈り

最近、願いが叶ったことがありますか?

私はその問いへの答えを探してみたのですが、見つかりませんでした。

それがなぜか、と考え、最近の自身の祈りが漠然としたものばかりだったからだと気づきました。

イルミナティの滅び、創価の滅び、李家の滅び、群馬人脈の滅び、悪人の滅び、まだ救われていない人の救い、親しい人達がコロナワクチンを打たないように、ラプトさんがより一層栄えますように、兄弟姉妹が個性才能をの伸ばして世に名を馳せられますように、そして自身も個性才能を活かして、多くの人を伝道できますように。

しかし、具体的に何かを祈っていたかというと、そういったことはあまりしていませんでした。

以前は違っていました。

信仰生活を始めた当初、私の住むマンションの近くに嫌な人がいたため、試しにその人がいなくなるよう祈ったら、祈り始めてからちょうど一か月後に、戸建てだったにも関わらず引っ越していきました。私はその経験から「神様はいる」と本気で信じて信仰生活を始めるようになったのですが、その後にも同じような経験をしました。

一年半ほど前ですが、隣の部屋に住んでいた女性が、夜になると大声で汚い言葉を発して、相手を罵っているような声が聞こえるようになりました。普段はすれ違っても普通なのですが、豹変したかのように叫んでいるのが聞こえるのです。そして、度々家のドアをノックして「ネットで悪口を言われている。心当たりはないか?」などと妻に聞いてくるようになりました。

とりあえず身に危険を感じるようなことはありませんでしたが、子どもたちは幼いですし、豹変した様が聞こえていたため、そのうち何か危害をくわえてくるかもしれない、と気になりだしたらとても心配になってしまいました。

そこで、その女性(男性も一緒に住んでいて、夫婦でしたが)が居なくなるよう、神様に祈り求めました。
するとこの時も祈り始めてからちょうど一か月後に引っ越していきました。

この時も、こんな偶然は絶対にあり得ない、明らかに神様がそのようにしてくださったと思い、心から感謝しました。

その後、私はそのマンションが手狭になったために引っ越したのですが、その時にも不思議な偶然が重なり、妻は完全に諦めていたのにも関わらず、私は祈り続け、思ってもいない形で、希望していたマンションに引っ越し先が決まりました。

そのことは以前、ブログにて証として書かせてもらったのですが、その自身の証を再度読み返してみて、やはり神様が導いてくださったのだな、という思いで、その時の感謝の気持ちがよみがえってきました。

このように、私自身の住む環境のことだけでも、これだけの願いを叶えてくださっている。

それなのに、なぜ最近は具体的なことを祈らなくなったのだろう。祈れば叶うと体感しているのに。

そう自身に問いかけてみると、自身の欲に対する考え方が間違った方向に行くのを恐れていることに気づきました。

私は信仰生活を始めるまで、欲にまみれた人生を送っていました。ですから、気を緩めると欲にまみれた生活に戻ってしまうという恐れから、極力自分の欲を抑えようとしていたのだと思います。そして何か欲がわいてきた時「信仰のためだから」と思ったとしても「いや、これは『信仰のため』と都合よく考えているだけで、実際には信仰とは関係ないのかもしれない」と勝手に決めつけ、勝手に罪の意識に苛まれて、祈ることをしていませんでした。

結果、いつしか「悪者の滅び」や「義人の救い」といった無難な祈りしか捧げないようになってしまっていました。

更に言えば「自分は恵まれていて、今のところ悩みなどない」と考えていたというのもあります。実際には小さな問題は起きているのですが、元々の「楽天的」な性格から、まぁいいか、で済ませていました。しかし「楽天的ではいけない」というのは、御言葉から学んだこと。

まぁいいか、と軽く考えている細かい問題こそが、実は自身にとっての信仰生活において大きな問題かもしれない。

どんなに細かいことでも、神様に神様に祈り求めて解決してもらうことで、日々の生活が神聖になっていく。そのようにしていかなければならない。

そのことに気づきました。

まずは自身の細かい問題を炙り出し、その上で神様に祈り求めていきたい。
そして願い事に関しても、短絡的に自身の欲で罪だ、と決めつけず、どのようなことでもまずは神様に聞いてみて、願ってみたいと思います。

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