嫌な思いによって得たこと

新年早々、とても嫌な思いをしました。

電話で話していたのですが、相手は理不尽な要求を突きつけてきて、正論を語るようにネチネチと話し続けてきました。私は、初めのうちは辛抱強く対応していたのですが、次第にイライラしてきてしまい、最終的に声を荒げて電話を切ってしまいました。

最近、感情のコントロールについての御言葉やインスタグラムでのお話がありました。

それらを聞いた私は「女性は大変だなぁ」「そういう人いるよなぁ」などとどこか他人事でした。そして自分は、その件に関しては大丈夫だ、と思っていた節がありました。

実際、それまで私は、抑えきれない感情に流されてしまうという経験があまりなく、声を荒げてしまう、という経験も滅多に無かったような気がしていたからです。

しかし、それは単にそういう場面に出くわす機会が少なかっただけで、自分が感情をコントロール出来ているか、ということとは別問題でした。

そして、恐らく神様はそんな私の傲慢な態度を見て、間違いを気付かせ、悔い改めるよう、今回のような嫌な経験をするように仕向けてくださったのだと思います。

現に、その後、私はしばらくの間は嫌な気持ちをが続き、考えるのをやめようと思っても、止めることが出来ずにいました。他のことを考えていても、いつしかふつふつとその時の嫌な感情が沸き起こってしまうのです。

そして、それはその日の明け方の祈りの時間にまで及んでいました。あの時、あー言えば良かった、今後、こうすべきだ、と心配や不安に苛まれていたのです。これは明らかに罪です。それを分かっているのに止めることが出来ない。
そのため、お祈りに全く集中出来ませんでした。

こういった感情に関しては、本当に自分の努力だけでは何も出来ません。ですから本当に治したいのなら、神様に祈り求めるしかない。そのことを痛感しました。

それにしても、御言葉で自分に関係の無いこと、自分は大丈夫なことなど、一つもないのだな、と今回のことを通じて思いました。むしろ、関係ない、大丈夫だ、と勝手に思ってしまっていることの中にこそ、まだ気付かずに悔い改められていない罪があるのでは、と。

今回のことで、嫌な思いはしたものの、今まで気付けなかった自身の罪について知ることが出来たのはとても良かったと思います。

これも、自身の気付いていない罪に気付かせてください、と祈り求めたからかもしれません。

感謝いたします。

ただ気付けただけではあまり意味がありません。
今後、このことについても神様に悔い改め、自身が変れるよう、祈り求めていきたいです。

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