祝祭の日

祝祭の日

私はできる限りドライブをして過ごそうと思っていました。車内であれば、誰の目も気にせず賛美できるからです。
そして、この日は一切の俗的なもの(音楽や動画)を裁ち切り、ひたすら賛美しようと心に決めて車を走らせました。

実は、このところ、自分は世の中の物に溺れているのではないか、という懸念がありました。
「個性・才能のため」と言って動画や作品を見ながらも、結局はそれを単に楽しんでいるだけなのではないか、と思ったのです。御心のために、技術や視点、人々を惹きつける方法などを学ぼうとしているのに、逆にそれを理由にしているだけで、実際にはただ観たいだけなのではないかと。そうだとしたら本末転倒で、意味が無いどころか、逆にサタンの術中にハマってしまっている可能性だってある。

ですから、この日は運転中も俗的なものは一切聞かず、徹底的に賛美しようと思ったのです。

私は通常、歩き祈りのルートにトンネルが入っているので、その間に賛美しています。大体時間的には二曲歌い終わるくらいでトンネルを抜けます。
主に賛美しているのは「The power of your love (日本語バージョン)」「もう一つの身を望まれ」そして「鹿のように」で、いつもこの三曲なのは好きだからという理由なのですが、プラスアルファにアップされている他の賛美歌は、歌い慣れていない、ということもあって、いつも、なんとなく敬遠してしまっていました。

しかし、この日はずっと賛美をするつもりだったので、三曲だけでは駄目だと思い、プラスアルファにアップされている全ての賛美歌を順番に、奈々さんの歌声と共に歌っていくことにしました。

海岸沿いを走っていた時です。
Thank you Lordを賛美していたら

「しかし願う道が閉ざされた時は目の前が暗くなりました」

のところで、涙があふれ出しました。
急なことで(いつも感動の涙があふれ出す時は急ですが)一瞬なぜか分かりませんでしたが、私は何度か裁かれた経験があり、その時の、まさに目の前が真っ暗になった時のことが重なったのかな、と思いました。そしてその後、悔い改め、踏ん張って信仰生活を離れずにいたことで、多くを悟り、幾度となく素晴らしい経験をさせていただいたことも思い出しました。

「感謝します。試みに耐える力をくださる御恵みを」

辛いこともあるけれど、すべてを喜びに変えてくださる。
本当に、心から神様に感謝しました。そしてその御心を伝えてくださっているRAPTさんにも。

感動の涙は久しぶりだったな。

そう思うと、同時にここ最近、この感動を忘れて、いつしか義務的に信仰生活を送っていたことに気付きました。

信仰生活を無理に行っている、という感覚はありません。長く信仰生活を続けているので、四本の柱を立てるのは当然のこととして行っていますし、明け方の時間の眠気との戦いが辛い、と感じることはあっても、物欲に溺れ、酒を飲んでいた空虚な日々を送っていた信仰生活以前の生活に戻りたいという思いは全くなく、もっと信仰を深めたい、神様に近づきたい、という思いは常に持っています。そして個性才能を伸ばすための努力も楽しんでやっています。

ただ、やはり信仰生活が日常に埋もれていって、信仰生活をしていたからこそ得られた感動の喜びを忘れていたように思いました。
信仰生活の当初は、喜びがあるから信仰を続けられる、という感覚があったのですが、慣れてしまうと信仰生活が当たり前になってしまって、喜びがなくても信仰を続けていられるようになり、いつしか感動の喜びをもっと得たい、という気持ちまでなくなっていたように思えたのです。

信仰生活をしていると喜びがある。
ここ最近、そのことがすっかり抜け落ちていた事に気付きました。

祝祭の日に改めて信仰生活の素晴らしさを思い出すことができて、本当に良かったです。同時に俗的なものに溺れないよう気を引き締めていかなければ、と改めて思いました。
俗的なものから感動を得ようとしなくても、それに勝る感動を信仰生活で得ることができるのだから、俗的なものなど必要ない、と。

これからも信仰生活で得られる感動を忘れずに、感謝しつつ、御心を成せるよう、走り続けていきたいです。

ドライブの途中、停車して歩いて海岸に出ました。
空と海がとてもきれいでした。

そして、まっすぐにひかれた水平線を見ながら「やっぱり地球はフラットじゃん」と心の中でつぶやきながら、素晴らしい光景を見せてくださっている神様に今一度感謝しました。

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