聖書の重要性

ここ数日、聖書の重要性についての御言葉が宣布されています。

私は少し前、このインスタグラムで、それまでよいと思っていた習慣が妨げられるような出来事が起きた、と書きました。

それはまさに聖書についてでした。

良くも悪くも「習慣」に囚われてる私は、聖書を読むのにも習慣をつくっていました。それはラプトさんのように、仕事の移動中に聖書を読む、というものでした。
それまでは比較的バスや電車での移動が多かったので、そこそこ聖書を読む機会があったのですが、それが少し前に、担当する仕事が変わり、公共機関を使った移動が極端に減ってしまったのです。そして仕事の大半は会社にいるか、クルマでの移動となってしまいました。
そのため必然的に、聖書を読む時間が少なくなってしまったのです。

そんな中での聖書についての御言葉。タイムリーだと思うと同時に、とても突き刺さりました。聖書を読めていないことを見透かされたような気持ちでした。

もしかしたら習慣化していた私独自の聖書を読む姿勢に疑問を持つよう、一度その良いと思っていた習慣を止めさせてくださったのかも。

今振り返ってみると、移動中に聖書を読む、と言っても、それほどたくさん読めていたわけではありません。それなのに「良い習慣」と決めつけて、それで満足していました。

そして、もしその習慣を今でも続けられていたら、今回の御言葉を聞いてもそれほど突き刺さらず、改善しようとも思わず、そのままダラダラと今まで通り続けていたのかもしれない。

それまでの習慣を見直すいい機会だったのかもしれません。

良いと思って習慣化したことは、それが義務的になってしまったり、当初の目的からズレてしまっても、良い行いだと思いこんでいるため、なかなか気づきにくい。

神様は、そういったことまでも事細かく修正してくださっているのだな、と思い、とてもありがたく感じました。

今回、川田さんと奈々さんが「聖書を読む時間を与えてください」と神様にお祈りしていらっしゃいました。

そうか、その時間さえも神様に祈り求めればいいのか。

私はそういった神様にすべてを委ねる姿勢というのが、まだまだ足りない、すべてを自分の頭で考えてやろうとしている、と気付きました。

仕事中に聖書が読めなくなった以上、どこかで時間を作らなければならないので、ひとまず、明け方の祈り後に時間をもうけて読もうと思っていますが、昨日、一昨日と試みてみたものの、歩いた後の疲労感からか、眠気が襲ってきてしまい、内容がなかなか頭に入ってきませんでした。

今後、読む時間、読む姿勢など、色々試して、神様に祈り求めつつ「聖書を読む」ための良い習慣が出来ればと思っています。

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