信仰生活をしなければ…

なぜワクチンを打ってしまうのか。

本当にいつの間にか、周りの皆がワクチンを接種してしまっていました。その中にはワクチンの危険性を説明した友人もいましたし、それ以前にコロナ自体が嘘、PCR検査は信頼に値しない、といったことを話して、すべてを疑うよう話した知人もいます。

しかし結局は、所詮「陰謀論でしょ」という話にとどまり、そんな嘘か本当か分からない話を信じていられない、周りの人がワクチンを打っていて、それが社会的に「正しい」と言われているのだから(マスコミがそう言っているのだから)打っちゃおう、と考えて、打つという結論に至ったのだと思います。もしくは、何も考えずに、ただみんなが打ってるからね、とだけの理由かも。本気でコロナに対して有効だと信じている人もいたのかもしれません。
そして副反応で大変な思いをしたのにも関わらず「二回目、憂鬱だ」と言いつつも二回目、三回目さえも打つ気満々な人がほとんどで、本当に驚きます。

しかし、よくよく考えてみると、単に私が話した陰謀論的な話を信じて、周りの流れや空気に逆らってまでワクチンを頑なに打たない、という方が難しいのかもしれない、と思うようになりました。

私としては、私の話を盲信するのではなく、それをきっかけに色々と調べてワクチンを打たない、という結論に至ってくれれば、そして願わくばラプトブログにたどり着いてくれれば、という思いだったのですが、なかなかそうはいかない。

では、もし私が彼らの立場だったらどうか?

ふと、そう考えてみようと思いました。

私が「ラプトブログ」を知らず、信仰生活も送っておらず、ただ陰謀論としてワクチンの危険性を聞いたとしたら。

元々、私はラプトブログに出会う前から陰謀論が好きだったので(というか、陰謀論を調べていてラプトブログにたどり着いたので)おそらくラプトブログを知らなくても、コロナワクチンについて、色々と調べていたと思います。そして打たないという結論に至ったはずです。しかし、ワクチンパスポートなどの話が出てきたらどうか。不自由を被るくらいなら、打ってしまってもいいか? と思ったかもしれない。みんな打ってるし、まぁ、それで死んでもみんなと一緒だし、それに死んでも来世に期待すればいいか、などと考えていたかも。(来世など無いのに…)

私が「絶対にワクチンを打たない」という確固たる意思を持てるのは、単にラプトブログを購読しているから、という理由ではなく、ラプトブログによって神様という存在を知り、その神様を信じ、ラプトさんが伝えてくださっている神様の御言葉を聞き、それに従って、信仰生活を送っているからなのだと思いました。

そこまでに至っていなかったら、そして、ラプトブログに出会ったとしても単なる陰謀論として捉えていたら、たとえ結果的に「ワクチンを打たない」という結論に至っても、常に「やっぱり打ったほうがいいのかな」「もし強制になったらどうしよう?」「打っていないとコロナにはなってしまうかもしれないから、いずれにしても辛い思いをする」などと、不安でいっぱいだったでしょう。

ここまでコロナについて騒ぎ立て、マスコミで大々的にワクチンを打つよう促されても、全く動じずに平常心で、不安など全くなく、このような暗い雰囲気に包まれた世の中でも、むしろ希望に満ち溢れた日々を送れているのは、信仰生活を送っているからに他ならないのだと思いました。

となると、私が友人知人にちょっとコロナワクチンの危険性を話したくらいでは、打たせないよう止めるのは難しかった。

やはり、伝道しなければ意味がない。

まずはラプトブログを知ってもらわなければならないけれど、それだけではなく、有料記事と朝回の配信を読み聞きし、神様を信じて、実際に信仰生活を送るようにならなければ、いずれは世間の悪なる大きな波に呑み込まれてしまう。

私の周りには、数人ではありますが、まだワクチンを打っていない人がいます。
その人達のほとんどが「得体のしれないものを体に入れるのは怖いから」という理由だけです。では、もし「ワクチンは安全です。副反応もなくなりました」という情報が流れ、それを信じてしまったら? たとえそれが「嘘」であったとしても、打ってしまうかもしれません。もしくはワクチンパスポートが本格的に始動したら「背に腹は代えられない」と打ってしまうかも。

そうならないためにも、やはり伝道を意識して、彼らに話していかなければ、と思いました。

より多くの人が、陰謀論としてのラプトブログにたどり着くだけでなく、有料記事を読み、朝回の配信を聞き、「宗教じゃん」と毛嫌いせず、この世の真実を知り、神様を信じ、神様が私達人類に与えてくださっているありがたい救いの御言葉に従って信仰生活をして、救われるよう、心から祈り求めます。

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