御言葉を聞く前に祈る

先日の御言葉で「御言葉を聞く前に祈っていますか?」という問いがありました。

私はこれまでずっと、明け方の祈りの時間に祈る前に御言葉を聞いていました。そうすれば深く祈れると考えていたからです。しかし、実際には深く祈れる日もあれば祈れない日もありました。それなのに、祈る前に御言葉を聞けば深く祈れる、という自身の考えに疑問を持つことはありませんでした。

御言葉を聞く前に祈る。

私は早速実践しなければ、と思い、今朝、明け方に祈ってから御言葉を聞きました。

不思議だったのが、今朝ふと思い立って祈ったことの答えが、すでに宣布されていた御言葉に用意されていた、ということです。祈ったから答えをくださったのではなく、答えがあるから、そのことについて祈ってみなさい、と教えてくださったのではないか。そのように思いました。

更に、その答えを聞いた瞬間、涙が溢れてきました。

私は毎回、裁きの御言葉が宣布された際に、そのことに対して少しでも思い当たるフシがあると、それまでの自身の行いすべてが悪かったのではないか、と考えてしまいがちです。そして自分は本当にダメだ、いつになっても神様のことを全然理解して差し上げられない、神様の心情を害することばかりをしてしまう、とネガティブな考えが膨れ上がってきてしまい、ものすごく落ち込んでしまうのです。

以前、御言葉に出会うまで、私はとても楽観的でした。何かが起きても「まぁいいや、なんとかなる」と考えて適当に日々を過ごしていました。しかし御言葉によって、そのようにいい加減な気持ちでは信仰生活を続けていくことは出来ない、と悔い改め、それ以来、御言葉に対して適当に考えないよう、そしてその都度真剣に向き合うよう心がけてきました。

しかし、片方に振れていた針がちょうどいい真ん中に留まらず、反動で真逆に振れてしまい、今度は極度にいろいろな物事を気にするようになってしまっていました。そして御言葉で宣布されたことに対して「そんなことまで言っていないだろう」ということにまで大げさに気にしてしまい、自身のすべてを全否定するようになってしまっていた気がするのです。

今朝、祈りの時間に涙が溢れたとき「ひとつ間違っていたからといって、それまでの自身の信仰すべてを否定してはいけない」という思いが頭に浮かびました。間違いもたくさんあるけれど、間違っていないこともある。間違っていないことまで否定して、神様を余計に悲しませてはいけない。そう思ったのです。

まだまだ私の中には気付いていない間違いやズレがたくさんあるのだと思います。

しかしそれを御言葉で指摘されたからといって、単に落ち込むだけではサタンの思う壺。

そうではなくて、悔い改められるよう気づかせてくださったことに感謝し、実際にそれらを一つ一つ悔い改めていき、そのことで更なる喜びと希望に満ちた日々を送れるようになりたいです。

目指すべきは中心者であるRAPTさん。50点を目指すのではなく、100点を取れるように頑張らなければ。以前の御言葉が思い出されます。

今後も弛むことなく、信仰生活を送っていきたいと思います。

#RAPTブログ #信仰生活 #御言葉 #明け方の祈り

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