倒れていた人を救ったときのこと

歩き祈りをしている途中、ある地点に行くと必ず思い出すことがあります。

それは、今年の夏に倒れていた人を助けたときのことです。

その時のことは以前投稿したのですが、歩き祈りの最中、夜中の三時ころに歩道で倒れている六十代くらいの男性を発見し、その人が顔から血を流していたので、水とウエットティッシュを買い与えて救急車を呼び、引き渡した、ということがありました。その後その人がどうなったのかは分かりませんが、とても印象深い出来事でした。

少し前に、なんらかの会話の流れからその出来事を知人に話しました。するとその人は「オレなら絶対に助けない。オレには全く関係のないことだし、他人がどうなろうと知ったこっちゃない。それに、あとから変に難癖をつけられるかもしれないから、そういったトラブルには関わらないようにしている。損することはあっても得することなんてないから」と言い放ちました。

確かに最近では、倒れている女性を助けようとした男性が、逆に体を触ったと言われて痴漢で訴えられたり、体を痛そうにして屈んでいる老人を助けようと車から降りて声をかけ、家まで送ってあげたら、その老人から、その人の車に接触して体を痛めた、と嘘をつかれて、人身事故として扱われた、といったような話も見聞きするので、彼の言っていた「関わりたくない」という気持ちも分かります。

そしてそこまで極端ではないにしても、助けたところで時間をとられるだけで、得することなどほとんどない。

実際、私はその人を助け、救おうとしたことで、なにか得をしたということはなく、その場で礼を言われたのかも定かではありません。逆に当初は「救急車は呼ばなくていいです。ちょっと寝てただけなので、朝になったら家に帰ります」と言われていたので、救急車を呼んだことで「余計なことはするな!」と逆ギレされる恐れもありました。

それでも、顔面から血を流し、靴も履かず、路上で寝てしまっていた人をそのままにはできませんでした。

それに、信仰生活を送っている今となっては、恩を仇で返され、理不尽に訴えられるかもしれない、という恐れはありませんでした。万が一そのようなことが起きて世間的に冷たい目で見られるようになったとしても、神様は見てくださっていて、善い行いをすれば評価してくださるのだから怖くない、世間にどう見られるかよりも神様からどう見られるかの方が大事だ、という思いでいられるため、たとえ誰も見ていなくても、誰からも評価されなくても、すすんで他人を救いたいと思えるのです。

なにより、いざという時は神様が守ってくださるという安心感がある。

ラプトさんは見ず知らずの私を救ってくださいました。

おそらく救われる以前の私の霊魂は、傷だらけの状態だったと思います。それこそ路上に倒れていた彼のような状態だったのかもしれません。しかしそんな私を抱き起こして救ってくださった。

ですから、今度は救われた私が、知人であろうと他人であろうと関係なく、人を救っていかなければならない。たとえ、恩を仇で返され、理不尽に訴えられるかもしれないとしても、それでも霊的な救いの手を差し伸べていかなければならない。

最近は、御言葉で宣布された「人々の救い」を祈っているからか、身近な友人知人よりも全く知らない他人を救っていきたい、という思いがいっそう強くなっています。

そもそも、ほんの少しの私の友人知人を救うために、神様は私をラプトブログに導いてくださったのではない。
世界の多くの人々を救うことを期待して、私を導いてくださったのだ。

そう思うと、期待に応えられるよう、もっともっと頑張らなければ、という思いに駆られます。

そのためにも個性才能を磨き、より多くの人々に「他人」である私の言葉に耳を傾けてもらえるようにならなければならない。

実際に路上で血だらけになって倒れている人はそうそういませんが、霊的に傷だらけで倒れている人はたくさんいるのだと思います。そういった路上で倒れている多くの霊魂を救えるよう、今後もコツコツと努力していきたいと思います。

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